板取の地名と郡上(中)
今回は加部(かべ)である。那比からタラガ峠を越えると加部に出る。馴染みのある地名なのに、手ごたえのある解釈ができないせいか、いつも腑に落ちない気分になる。
板取と郡上とのかかわりからすれば、ここが一つの起点になることは間違いあるまい。ところが、これと関連しそうなのが板取川を遡って門原(かどはら)から郡上大和へ出た「河辺(かべ)」である。今の感覚で合理性があるかないかが基準ではないとしても、地理上しっくりこないところはある。河辺(かべ)は、字面からして、「かわべ」を原形にするだろう。さらに旧仮名遣いでいえば、「かはべ」になる。
河原が「かは-はら」から「かはら」に、野原が「の-はら」から「のら」になるから、「は」が落ちていることになる。これから、河辺が「かは-べ」から「かべ」になるとしても不思議はなさそうだが、なんだか落ち着かない。
もう少し細かく言うと、河原、野原の場合は、「原(はら)」の「は」が抜けて「ら」となるのに対し、河辺は「かは-べ」の「河(かは)」という語幹の一部が欠けている点に違いがある。
「野辺送り」の「野辺」は、「の-べ」で、集落のはずれ辺りを指す。この場合は、死者を埋葬する場所のことである。これを単に「野送り」という例もある。
これらを郡上に散見する「野首」という地名と比べてみれば、確かに「野」だけでも埋葬地を連想できそうだ。これから、「べ」が独立して「辺(あた)り」を表す印象が強くなるのかもしれない。
かくの如く「の-べ」がそれぞれ「野-辺」の義を表せるとすれば、「河辺」もまた同じように「か-べ」と考えられたのかもしれない。これでよければ、大和の河辺はそれなりに由緒を辿れそうな地名となる。
ところが郡上の小字をさぐってみても、明宝気良に「川辺(かわべ)」、大和万場に「河部田(かわべだ)」とあるぐらいで、今のところ「かべ」と読む例を知らない。
他方、板取の加部は仮名のような表し方になっており、語義不明で、これ以上辿りようがないように見える。ただ私は「部(べ)」について、あまり根拠はないけれども、大和河辺から内ヶ谷へ行くまでに「名皿部(なさらべ)」「落部(おちべ)」を経由する点が気になっている。大和-板取のルート上にあると言ってよかろう。
板取加部から北は、戦国時代の後期からしか史料がないので、様々な分野から迫っていくしかない。一つの見通しとして、板取北部の開拓が割合遅かったのではないかと考えている。戦国期あたりから、洞戸のみならず郡上や越前穴馬村などから開拓者が徐々に入植してきたのではなかろうか。
「河辺(かべ)」という印象に残る地名が変化して「加部(かべ)」という形で残っていると考えられないか。