因果応報
生きている以上、今の行いがいずれ何らかの結果をもたらすわけだから、原因と結果は糾える繩のごとしである。だがこの歳になると、今は過去の報いであることが多い。
人は社会や歴史などから逃れられないとしても、まずは個人として生存している。生き物としての生老病死もそうであるし、世間での評判や金銭にいたるまで、過去の営為が結果として眼前にある。
友人を思い浮かべると、前歯が抜けてそのままにしている人がいるし、犬歯が無い人もいる。入れ歯を用意しているのか尋ねたことはない。
自分自身を振り返っても、割れた歯を抜いた後そのままである。歯医者に行くのが面倒なこともあるし、綺麗に直したところでそう長く生きられるわけでもないというような屁理屈が思い浮ぶ。誰も見ていないからか、どうしても自分に甘くなる。我慢できないほど痛めば別として、それほどでもなければ手入れが疎かになり、虫歯が増える。
一本一本と抜けるにつれ、顔に立体感がなくなり、年寄顔になっていく。少しばかり寂しい気になることはなるが、年寄だから当然ではないかと居直っている。
私がここへ引っ越してきた理由は、今となっては、はっきりしない。第一の理由だったかどうか自信がないけれども、子供を育てるにしても勉強をするにしても静かな環境を求めていたのは確かだ。
なるだけ自分が目立たないように生きてきた。おかげで、この町に埋もれて生きてこれた気がする。だが、生きていくにはそれなりに自分を知ってもらう必要がある。小さな社会は穏やかだが、生きる糧を得るのは難しい。
若い時からフラフラ生きて、老後を思い浮かべることがなかった。キリギリスのように生きてきたつもりはないけれど、ずっと貧乏のままで、今金に不自由するわけだ。
歳をとると、物忘れがひどくなる。人の名前がなかなか出てこないし、例えぴったり手ごたえのある言葉が浮かんでも立ちどころに消えてしまう。
幸いと言うべきか、馬鹿というべきか。私は若い時から「覚える」という努力をしてこなかった。記憶する能力が劣ることに気づいていたし、覚える作業に労力を費やす気にはなれなかった。覚えておけば便利だと知らないわけではない。だがこの方法では、どうも身につかなかった気がする。
面白いと感じたり、大事そうなことは繰り返し取り組んで覚わるようにしてきた。これが原因かどうか、自分らしさを求めるあまり頑固になって、何事にも柔らかく対応出来ないようになっているかもしれない。
どれも因果が巡って今の自分を形作っている。一番気がかりなのは自分の顔に険しさや、さもしさが出てしまうことである。ただこれまでの人生を後悔することが無いので、愚かさが前面に出ているとしても、そんなに心配していない。