歴史の切り口

新型コロナの感染者数が日増しに増えている。日本のみならず世界中で社会や経済に大きな影響を与えているだけでなく、既に人の心の中にまで侵入しているようである。
ヨーロッパと言っても一概には言えまいが、イタリアやスペインでは一日あたり数百人も亡くなっている。フランスやイギリスでもこれに続く勢いである。今や感染の中心地がアメリカに移っていると云う。絶望の淵にある人へ声をかけることはできないが、心を痛めている者がここにも一人いる。
ただ、これでは守備範囲を超えてしまうので、私の住む地域に焦点を絞りたいと思う。
昨日だったか、岐阜県でも緊急事態宣言が出された。これに先立ち政府が発表した全国七都市中に中部圏が入っておらず、愛知県が独自に宣言を出したので岐阜県もこれに続く格好になった。
確かに岐阜県でも、集団感染が出て感染者数もかなり増えてきた。現在休校中の小中学校は更に閉鎖が二週間延長され、緊迫した状況である。
幸い今のところ郡上で発症した人も陽性になった人も皆無なのだが、これも時間の問題と考える人が増えてきた。皆第一号になりたくないので、戦々恐々だ。
我々は敗戦後、二つの意味で自由を獲得してきた。一つは戦時体制からで、一つは家などの社会制度からである。いずれも我々の心を堅く縛ってきた。
恐る恐る、ごそごそ身をゆすりながら一歩一歩しがらみを解いてきたと言ってよかろう。自由にはその根底に重い約束があることも徐々に学んできた。棚ぼたの意味もあるので、これからも充実していく作業は欠かせない。最早、自由は日常生活に根付いており、これを力で抑え込むのは難しいのではあるまいか。
老若男女いずれにしても、人は人と遊ぶことが欠かせない。人が集まり楽しむのは誰にとっても奪われてはならない権利といってよかろう。
だが、集団感染しないためには、なるだけ集団を避ける必要がある。若い人なら、長い間家に閉じこもっているのか耐えがたいかもしれない。彼らは免疫力が強く、重症化しにくいということもある。
だが一人の感染が家族や近隣に影響を与えてしまう。自らを守ると同時に、親や年寄りのために自重してくれとは彼らに言いにくい。年寄りも籠りますので、配慮をお願いしたいと申し上げておく。
政府が要請しても、要請である以上罰則を伴う法ではない。狭い空間で濃厚接触したり、大勢が集まって何かをやるとなると感染する確率が高くなる。
我々がやっと手にした自由を、外からの力で制限するのは忍びない。自らの意志で自重することを選びたい。

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