今年の桜

日本は広い。岐阜県でも飛騨の奥まで行けばまだ蕾が固い所もありそうだし、ここらあたりでもまだ八重桜は豪華な花をつけている。従って慎重に言葉を選ぶべきだろうが、郡上八幡では見頃が過ぎてしまったようだ。
吉田川沿いの散歩道にも何本かあるし、我が町内にも旧庁舎の裏に大木がある。十日ほど前だったか、見事な満開だった。
散歩に出て見る桜も数日前の段階で殆ど散ってしまっていた。今では綺麗な薄緑の新芽が蔽い始めている。
私は桜に心躍ることはない。が、例年よりさらに深く沈んで見ている気がする。何か別世界の花のようだ。
若い時からさほど桜を好んでこなかった。それほど嫌う理由もないのに、周りの者が持ち上げるので目を向けなかっただけかもしれない。拗ねて、自を袋小路へ追いやっていたと思う。
天邪鬼で、誰に対しても斜めから見るような生き方だった。メジャーなものは必ず疑い、マイナーな方に身を置く癖があった。
実際に花を見れば可憐であるし、満開ともなると華麗である。種類も多い。高校への行き帰りに立ち寄っていた明石公園にも桜があったように思う。だが、これを見ても心が弾むということはなかった。むしろ弾むことを抑えていた言う方が正確かも知れない。
どちらかと言うと桃や梅に惹かれていた。桜が大木になるのに対し、これらは低木である。殊に梅は桜よりやや小さ目の地味な花だが、香りが好きだった。桜よりは梅を、梅よりは野の草花を好んできたし、この傾向は今も変わらない。
壮年時代にしても同じで、花見に出かけて盃を交わしたというような経験は殆どない。
歳を重ねていけば角も取れ、物事を素直に見そうなものなのに、そういうようには進化しなかった。恥ずかしながら、未だにそのような熟成がない。
祭りが中止になってしまったので、何となく静かである。神社の要請で、氏子になっている各町内で幟だけは立てた。町内の者が集まって、無事を確認できたのは幸いだった。皆殆ど外へ出ないということだった。誰からも桜の話は出なかった。知らぬ内に見頃を失したと感じた人が多いかもしれない。
学校も閉鎖されているし、図書館や公民館などの公共施設も閉まっている。小さな駄菓子屋すら自粛ムードで、人の出入りは殆どない。子供達も心を痛めているだろう。
私は何とか仕事を続けてはいるが、疑心暗鬼で不安な毎日である。来月の連休明けには展望が開けてほしいものだ。さもなければ郡上も五月末まで閑散とした状態が続くかもしれない。
今年は桜から最も遠い所に身を置いている。

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