当事者
人の業績を評価するのは難しいし、人を評価するのは更に難しい。自分の能力が限られているからだ。しっかり時間をかけるほかあるまい。
迂闊な私でも、この歳になってみると、実際に誰が家庭や社会の荷を負っているのか分かってくる。彼らは日々悪戦苦闘することが多く、一歩でも前へ進むことの難しさが身に染みて愚痴を言う暇もない。まあ愚痴などというものは、ちょっとした休憩みたいなものだ。
自分を振り返ってみた。若い時には、それなりに理想があった。人は自分の力ではどうにもできない氏素性で取捨選択されるとおかしくなる。確かに人はそれぞれ自分が磨いてきた能力と生き方でのみ判断されるべきだ。
だとしても、代々受け継いできた稼業であれば深い理解が伝承されていることがあるし、環境が人をつくるという意味もある。門地という生まれながらの条件が整っていて、その上人一倍努力すれば抜きん出た能力が身につくこともあるだろう。
だが素性に胡坐をかいて励まないのであれば、それこそ厄介なことになる。力もないのに上位にいるのでは、うまく行くはずがない。浮世では、どちらも決して珍しい事ではない。
底辺で生まれた私にとって、馬鹿にされないというのは最優先事項の一つだった。親にもそう言われてきたし、一人として見られた時に、胸を張っていられるようにしたかった。これは重い課題だったし、そのためには自分に厳しくするしかなかった。
だからと言って何か成果を手に入れてきたわけではない。自分の能力を過大評価し、夢を追いかけてきたにすぎない。
今思えば、自分に対してほどではないとしても、周りの人へも何がしかを求めてきたようだ。お目出度いと言えばお目出度い。
他者に期待するとなると、裏返しがきつい。人が何か私の気に入らないことしたとすると、腹いっぱい不満をためて、あら捜しをする。戦闘モードに入ってしまえば、穏やかな議論を越えて、辛辣な批判を始めることもある。
今は全く期待していないかと問われれば、よく分からない。もうそんなことは視野に入っていない。誰にしろ、好きにすればよい。私は自分のことで手一杯である。
傍観者であれば冷静でいられるし、俯瞰もしやすい。自分に直接火の粉がかからないと分かれば無責任な評論を始め、あげく感情のまま相手を批判したりする。
この批判に何らかの損得勘定が隠れていれば、もっぱら相手を引きづり下すことに専念してしまう。
悪意が介在しないのであれば、人は一方が正しくて、他方が悪いというような関係は少ない。くれぐれも評価は、当事者として身を置いた上で行いたい。