小さな喜び

小さなことを喜べる人は大きな幸せを得られるそうな。私は「大きな幸せ」を望んでおらず、日常の些細なことを喜べるだけで本望である。大きい小さいと言っても人それぞれなので本当のところは明らかでない。
家族や友人達と何気ない話をできるのはうれしい。やれどこが悪いだの、どこが痛いだのというような内容でも、顔を合わせているだけで安心できることがある。自分を含め、それなりにちゃんと生きているのであれば申し分ない。
私にしても順調に老いを迎えているわけではないが、それなりに目は見えるし耳も聞こえる。図書館へは歩いていくし、仕事場へは雪でも自転車で通う。
贅沢なものを望んでいるわけではないので、日々の食事も旬の物を美味しく頂いて十分であるし、汗臭い服を着ることもない。どれもこれも、できない人から見れば羨むことかもしれない。
近頃私は、以前にも増して自分が知らないことやら間違っているところに気づくと、何かしら充実感があり、手ごたえを感じる。
実際のところは、数えきれない誤りの中から幾つか目立ったものに行き着いたに過ぎない。ほとんど毎日間違いや足りないところに当たる。やればやるほど訂正するところが増える。
間違いの絶対数が少ない人が失敗に気づくなら、誰かに対して恥ずかしいとか、これを直せば整合性を得られるとかがあるかもしれない。彼らなら、ある程度自己満足を得られそうだ。
自分にも少しは能力があると錯覚していた時には、有り得ない事として、慌てふためいていた。さりながら、これが毎日毎日続くとなるとすっかり自分への期待が消える。ずいぶん前から、誤りを修正していく作業が日常になってしまった。毎日なら感情の起伏が無くなってきたかというと、そうでもない。
わたしの間違いには主として二つのタイプがあるように見える。一つはケアレスミスで、もう一つは理解が届かないためのミスである。
どちらも数えきれないが、特に前者はミスを訂正した時にちゃんと直せずに新たなミスをする場合が多い。心してかからねば、永遠のループである。これは単なるミスでなく、背景に難しいテーマが隠れていることもある。
私は基本の勉強を怠ってきたので、高級な理念や熟練を必要とする体系の理解が難しい。にもかかわらず能力を過信し、まさに目の前にあるテーマだと錯覚してしてきた。
いずれにしても手探りの作業を続けていると、たまにアイデアが生まれることがある。肩透かしを食うこともあるが、少しばかり視野が広がることもある。私にとってはこれが小さな喜びである。

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