「志」という言葉

たまたま釣り番組を見ていると、ある語り手が突堤から竿を出していた男性について「志という言葉が嫌いな人だ」と紹介していた。
何気なしに聞いていたが、時間が経つにつれて重みが増してきた。一体彼に何があったのだろう。
「志」という語は「士」「心」で成り立っているように見えるが、実はそうでない。篆書体では「之」「心」につくる。
『説文』によると「志 意也 从心𡳿 𡳿亦聲」(十篇下128)となっており、「𡳿」は「之」とみてよいから、「之」「心」につくっていることになる。
「之」を「行く」と解してよいなら、「志」は「心が思うまま行く」「こころざす」あたりだろうか。また「意 志也」(十篇下129)だから、「意」と「志」は互いの訓となっている。意志が強かったり弱かったりするわけだ。
彼がなぜ「志」という言葉が嫌いなのか分からない。ただ人生を気楽にやりたいと思うだけかもしれないが、これだけでは腑に落ちない。彼がかつて「志」、又は「志」という言葉を大切にしてきたことは確かだと思う。愛憎は裏表一体である。
おそらく彼は、いつのころか何かを志したのだろう。簡単に実現可能なことを志していたのなら、成功して成果を手にしても、まずくして手にできなかったにしても、嫌うには至るまい。実現が相当難しいテーマを目指していたかも知れない。しかし何かが起こった。彼の志を挫くことが起こったのではあるまいか。
実現可能だと思われたことでも、やり遂げるまでには相当厄介な手順がある。
夢にも種が要る。これを豊かな土壌へ植えなければならないし、適度に水などを与えねばならない。順調に苗が育ったとしても、病害虫にやられるかもしれない。例えこれらを全て乗り越えたとしても、成果を手にするまでにはまだまだ幾つも難関を越えねばならない。かくの如く、途中で上手くいかないことがままある。
彼の厳しい言葉と比べてみれば、悲しいことに、もともと私には特別な志というものは無かったように思う。
ライフワークとする作業でも、もうはっきりしたきっかけさえ忘れてしまった。ただただ続けてやっているに過ぎない。近頃では、はっきりした目標を志したこともない。たとえ志したとしても、達成するとか失敗するとかを確認できるわけでもない。十年一日でありながら、雲をつかむような内容である。
これが正解という結論が出ない作業なので、特別な希望があるとか、絶望するとかもない。無謀なことをやり始めたので、どれほど続けても、結局は中途半端に終わるしかない。自分の愚かさにあきれても、何かを責めるわけにはいかないし、また誰かを責めるわけにもいかない。私では志を愛することも嫌うこともできないのだ。

前の記事

寝苦しい

次の記事

夜刀の神