雪降りに思うこと

週末に雪が降った。大寒が過ぎたというのにまだ春が遠い。春が来ても手放しで喜べるわけではないのに、何となく恋しい気がする。若い時なら冬を楽しむこともできようが、この歳になってみると心ならずも寒さが襲ってくるという印象である。それでもまあ、三寒四温ということもある。耐えていれば、そのうち雪も融けていくだろう。

私は雪がそれほど嫌いなわけではない。初雪で辺りが薄化粧した景色は驚くほど美しい。ちょっと雪を被るだけで、普段目にする日常が別世界のように見える。ところが、やまずにどんどん降ると厄介だ。自転車での通勤はおろか、歩いて行くことすら危なくなる。ここら辺りを雪国と呼んでよいのか多少疑問があるにしても、雪かきのたいへんさは雪国に住む者にしか分からない。ぼちぼちやって一段落し、どうにかやり過ごせるようになると、遠くの山へ目をやることもできる。今のところ雪解けまで思い至らないが、また山々のまだら模様も心惹かれる。郡上でも雪の多い年は豊作になるというような伝承がある。大変さの向こうに、明るい兆しがあるわけだ。

「雪」という字はその形だけでは音義ともによく分からない。『説文』では「䨮」の形で載っており、「䨮 凝雨説物者也 从雨 彗聲」(十一篇下060)である。これを「雨」「彗」の会意字とし、「彗」を「竹帚(たけぼうき)」とみて、雪を「竹帚ではく雨」と解するのは俗だろう。段氏玉裁は「凝」を「冰」につくっているが、「凝る」「冰る」はいずれにしても意味はそれほど変わるまい。「説」は「悅」で「よろこぶ」とすれば、「雨が固まって人が悅ぶ物である」というぐらいか。してみると、何故かは分からないけれども、古くから雪は人を喜ばしてきたことになる。私などはこれをめったに雪を見ない人の定義のように感じてしまうが、実際はそうではないかも知れない。古代中国でも雪と豊作が連想できたのかもしれない。許愼がなぜ敢えて「説」という字に拘ったのか分からないけれども、「雪」「説」が同韻なので、洒落ているつもりかな。

「ゆき」の語源は分からない。「ゆ(齋)-き(白き)」と分けるのはうがった見方だが、心に響かない。「き」が甲類だから、「氣」ではなく「白き」をつけ足したように感じてしまう。「ゆき」を連語とすれば、「ゆきよし(潔齋)」が気になるものの何だか信仰に傾いてそれ程古くないような気がする。

ゆらゆらと揺らいで降る雪を思い浮かべれば、「ゆげ」の「ゆ」に近い語感があるかも知れぬ。これまで語源を無視してきたのは迂闊だったかもしれない。                                               髭じいさん

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