土曇り

耳慣れない言葉かもしれない。「大風が砂埃を巻き上げ、これを降らして昼なお暗くなる」あたりの義でよかろう。但し表記が安定しておらず、つちくもり、土曇り、土くもりなど、どれを選ぶか迷いがある。

我が家の裏庭にあった雪もほとんど消えた。二月に入っても、積もっては消えを繰り返してきたので根雪と呼ぶのは気が引ける。予報ではまだまだ雪が降るらしいので、手放しで喜べるわけではないが、雪が消えると三寒四温を実感できる。ただ水仙はまだ頭を出していない。温かい日には何とかこの冬を生き抜くことができそうな気がしてくる。若い時はこれほど寒暖に反応してこなかったと思う。ただし春になれば春になったで、鬱陶しいことがある。二月に入って晴れた日には杉花粉が飛び始めるし、そろそろ黄砂を警戒せなばなるまい。

花粉症については何回か触れてきたので、今回は黄砂を取り上げてみよう。いつごろから黄砂が飛んでいたのか分からない。黄砂という言葉は耳新しい語のような気がして、近頃の話かなと勝手に決めていた。実際にどうだったかは不明ながら、私の少年時代に黄砂が話題になることは多くなかったと思う。規模の大小が関わるのかも知れない。

『爾雅』という辞書を見ているとよく分からない語があった。「風而雨土爲霾」中の「霾(バイ、マイ)」という字で、あまり心当たりがない。一般に「風が吹いて土を巻き上げ、これを降らして暗くなる」と解さることが多い。とすれば土煙り程度でおさまらず、規模の大きな話だ。郭璞注では『詩經』を引いて「終風且霾」(邶風 終風・2)の「霾」と同義とするから、ずいぶん前から使われていたようである。『説文』で確認してみてもやはり『爾雅』の定義を踏襲しており、随分長い間同じ意味で使われていることが分かる。

そこで私はこの土曇りを黄砂でないかと考えてみた。黄土高原が荒れ果て、土ぼこりが立つようになったのがいつ頃なのか知る由もないが、周代には乾燥が進んで黄砂を巻き上げていたと解してみるのだ。人の開拓がこれに関連するのかどうか分からない。かつて森林だったという説もあり、大規模に伐採して畑作地帯になっていた可能性はある。風が強ければ表土を奪っていくので、荒れ地になるのも分かる。

これでよければ、『詩經』邶風は西周代に遡ることもできようから、随分古くから黄砂に悩まされてきたことになる。黄砂はもう勘弁してほしいが、身近な事にも気の遠くなるような物語が隠れているわけだ。若い時のことを思えば、図らずも長生きしている。私はここまでくることを想定していなかった。としても、ちっぽけな話ではないか。

                                             髭じいさん

『詩經』卷第二-一 邶風 終風・2 「終風且霾 惠然肯來 莫往莫來 悠悠我思」 傳「霾 雨土也 〇霾 亡皆反 徐又莫戒反 雨 于付反 風而雨土爲霾」

『爾雅』釋天第八・7-10 「風而雨土爲霾」 郭注「詩云 終風且霾 ○雨音預」

説文』「霾 風而雨土爲霾 从雨 貍聲 詩曰 終風且霾」(十一篇下092)

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