愛宕町

「あたごちょう」と読む。ここら辺りでは少ないとしても、それほど珍しい地名とは思えない。今回は町名の由來について考えてみようという趣向だ。私の住む町からそれほど遠くなく、隣町みたいなものなので馴染みがある。遠藤常友代の地図を見ても「赤谷町」であるし、幕末の史料でもやはり「赤谷」となっており、江戸時代は「赤谷町(あかだにまち)」でまず間違いないだろう。

八幡において「まち」と「チョウ」は混在しており意味合いが異なっている。「本町(ほんまち)」「新町(しんまち)」など、「まち」は殆んど江戸時代からの由来を持つ。すべて桝形や番所の内側にあり、城下の町(まち)という意味である。これに対し「チョウ」は城外ないし明治以後に名付けられたと解してよかろう。

「常磐町(ときわまち)」「朝日町(あさひまち)」は江戸時代を通じて河原ないし畑地であったようだが、幕末に開拓され、ぎりぎり「まち」を名乗ったことになる。「東町(ひがしまち)」「栄町(さかえまち)」などは城外だが、明治以後、これまでの伝統を継いだ町名にしたのだろう。「日吉町(ひよしチョウ)」は城内にあるのに「チョウ」だから、本来「まち」名だったのが変更されたか、或いは開発が遅れたのかもしれない。「城南町(じょうなんチョウ)」は城外にあり、明治以後にできた町らしく、新しさが感じられる。

さて、本題の赤谷町(あかだにまち)から愛宕町(あたごチョウ)への地名変更に入ろう。残念ながら、ピンポイントの史料がなく手元にあるものから推測せざるをない。旧地名の「まち」から「チョウ」へ変わった例は、この他「塩屋町(しおやまち)」から「橋本町(はしもとチョウ)」が確認できる。

いずれもなかなか興味深いが、今回は前者に絞ってみる。変更を明治代と推測して、これまで次の二つの理由を考えてきた。

1 戦国時代赤谷山城で戦乱があり、多量の血が赤谷へ流れ込んだという伝承がある。「血」を連想させるので「赤」を嫌い、愛宕神社に因んで愛宕町にした。それにしては、明治以後になって変えるのが腑に落ちない。

2 大水害をきっかけとして、心機一転、神の加護が期待できる「愛宕」を地名にした。明治中頃に起った山崩れでこの地区は大打撃を受けた。避難所になっていた慈恩寺が泥をかぶり、大勢人が死んだ。『水災誌』という史料では「赤谷(町)」を襲ったとある。

俄かに他の原因が思い浮かばないし、地名変更が明治より更に下る場合も考えられるので容易でない。地道に資料を探す他なかろう。ここで残念な話がある。この地区の旧家にかなり史料があったらしいが、貸し出したまま返ってこなかったことがあるそうだ。これでは気軽に頼めそうもない。当面は図書館通いを続けることにする。これはこれで楽しいがね。

                                              髭じいさん

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