凌霜

「凌霜」は霜を凌いで咲く葉菊に例えて不屈の精神を表す句で、郡上では江戸時代後半から統治した青山氏の家紋である青山葉菊に由来すると言ってよかろう。

凌霜隊はこれに因んでいる。幕末の激動で、藩論が勤王か佐幕かで二つに分かれた。まだ事の帰趨が決していないわけだから当然といえば当然である。小藩が生き残るにはだんまりを決め込んで騒ぎが収まるまでひっそりしておくか、勝ち馬に乗ることが必須である。大まかに言って郡上では静観派が、江戸表では強硬派が優勢だったと言ってよかろう。どの程度藩論を統一できたのか分からないが、江戸表に居たものを中心に凌霜隊が結成されたらしい。彼らは一応脱藩した形になっているが、藩が資金及び武器、弾薬を出しているから、藩がスポンサーになっていることは間違いあるまい。彼らは不撓不屈で連戦するも、鶴ヶ城で敗戦となった。戦争だから、残念ながら戦死者やけが人は出る。残る者達は藩預かりとなって帰郷することになった。帰途の道中も大変だったようだ。郡上八幡に着くや否や、彼らは罪人として「揚屋(あげや)」という牢獄に収監されることになった。藩としては新政府の顔色を窺う他なかったかもしれない。他方隊士たちは、藩の存続を思いそれこそ凌霜の精神で戦ってきた結果、故郷で罪人として扱われたのである。さぞかし無念だっただろう。いわば、藩が生き残るためにとった二股政策の犠牲になったと解してよい。数年にして解かれた後、郡上を去る者が多かった。罪人の汚名を被ったわけだから、さもありなん。郡上に残った者も歴史を背負って生きる外なく、楽ではなかっただろう。

私がこの地に来て間もないころ、城山の麓で古ぼけた建物に「凌霜塾」という看板がかかっていたことを思い出す。もう四十年以上前のことである。戦前からあったらしく、国策に合わせ開拓団として大勢若者を満洲へ送ったらしい。これを支えたのが「凌霜の精神」だったという。満州に限らずハワイやブラジルなどへも移民してきたので、ことさらここで取り上げるのは安穏ではないかもしれぬが、やむを得ない。自ら選んだとは言え、地元の指導者が「凌霜の精神」という旗を振り、これに応じて夢をみたことが苦難の始まりだったことになる。聞くところによれば、開拓時代が苦労の連続だっただけでなく、敗戦後引き上げる時も命からがらだったらしい。生存している経験者は凌霜塾を良く言う人が少ない。

「凌霜」は耳ざわりのよい立派な言葉だが、「凌霜隊」といい「凌霜塾」といい、つらい記憶がよみがえる。個人の決意や頑張りだけではどうにもならないこともある。これを学校教育の分野でスローガンとするのは大いに疑問がある。地元の高校に伝えられる「潜龍」など、他にもなかなか良いものがあるではないか。                                             髭じいさん

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