楽しむ

学問などという古臭い用語では受け付けてくれないかもしれない。私の世代だと、大学へは学問しに行くという人がけっこういたと思う。ただ、明治なら学問で身を立ててひとかどの人物になるというような気分があったとしても、さすがに高度成長期にあたる我々ではそれほどでもなかった。

私事ながら、学問は自分がどのような人間なのかを知ることだと思ってきた。とすれば行き着く先が同じだから、どの分野から始めてもよいことになる。大学の学部を選ぶ際にもそれほど拘らなかった。このやり方は幅広い視点が得られるという好ましい点がある一方で、一つの分野に集中した專門知識を得ることにはならない欠点があった。

とは言え、自分をよく分かるようになったわけではない。知れば知るほど知らないことが増え、時々に興味がわくものへ意識が飛んでしまう。たまたま法学部へ入ったものの、よく考えてみれば、もっとも勉強しなかったのが法学だった。

浮世は真実と真実とみなされることで成り立っている。単なる物語にすぎないのに無理やり真実だと定義されることもある。敗戦前には天皇を神格化して神話を歴史だと信じてきた。戦後これを反省し、事実に基づく歴史を生み出そうと総力を挙げて取り組んできた。だがこれもイデオロギーをそのまま後生大事にしてきたとすれば、これまでと左程変わらない。歴史学を確かなものにするために考古学の成果を取り入れようとしてきたのも、頻繁に歴史学をミスリードしてきた。相対年代である以上、不確定要素が多すぎるからである。振り子の片方が神話とすれば、もう片方がイデオロギーや考古学だったのかもしれない。

行き過ぎた民族主義も、どっぷり漬かっている本人には正義やら論理がまともであると錯覚できても、頭を冷やしてみれば、物語におぼれていたに過ぎないことが分かる。

この間、『論語』の「子曰 知之者不如好之者 好之者不如樂之者」(雍也十八)という文章に出会った。「苦学して知識を得る者はこれを好んでやる者には及ばない。好んでやる者はこれを楽しんでやる者には及ばない」。孔子にとっての「知」は「務民之義 敬鬼神而遠之」らしいので、いわば君子たるに相応しい「知」だろうから、当然古臭い社会を前提している。としても、言わんとするところは現代にも通じそうだ。

もがくだけで味気ない勉強の仕方であっても、それなりに成果はあるだろう。ただ、取り組んでいる最中に何か自分で好きな点を見つけられれば、ばらばらの知識がまとまっていく喜びが得られ、ずんずん進む気がする。増してこれを楽しんでやれる人なら、更に視野が広がっていくのではあるまいか。                                               髭じいさん

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