一人相撲

血族や姻族とのつきあいが疎くなり、ぼつぼつ歯が欠けるように友人や隣人がみまかるにつれ、この世との繋がりが切れていくように感じる。寂しいには寂しいが、しがらみが無くなって、どんどん気が楽になってきたとも言える。

誰かが気にかけてくれたり、実際にかまってくれる人が周りに居れば、生意気になるようなことがあるとしても、それなりに穏やかな人間でいられる。自分を大切にしてくれる人が段々いなくなるにつれ、継続してやってきたことの意味合いが変わってしまうこともある。自分のやっていることを面白がってくれる人がいれば、中身はさておき、やっていることを好きでいられるし、又それとなく楽しくもある。こういった環境は事の本質と関わらないように見えるが、そうでもない。

前回幾らか役に立つかもしれないと思って「柿(かき)」と「杮(こけら)」について書いたが、すっかり脱力するような記事を見た。

朝日新聞デジタルというサイトの「朝日字体の時代12」というのをみると、「柿」「杮」について最後に、「ただ、過去の活字資料を眺めていると「同じ字のままでもよかったじゃん」と言いたくなるのが正直なところです」とあった。まったく藪から棒で何を言っているのか分からない。これは「柿」「杮」を区別するのが正しいと判定しているのかどうかは別にした結論だそうだが、正しいかどうか判定しなくてよいのか。著者がこの記事を書くにあたって専門家の意見をしっかり聴いていれば、社を代表してこんなことを言うまい。

「柿」「杮」はそれぞれ別の字を起源として別々の成立史を持つ。中国でも字形が似ているので解釈を混同する辞書もあるにはある。『康煕字典』を聖典として全て鵜呑みにするのではいつまでも闇の中である。これらをちゃんと整理して別に立て、関連する字の解析に生かしているものもある。中国でも間違った辞書があるから、これを根拠に、混用してよいはずがない。「柿」「杮」それぞれに分かり易いフォントを作って区別するのが基本だろう。日本語は漢字仮名混じりを中心にカタカナを加えて表記する。仮名にしてもカタカナにしても漢字を元にしている。一画と言えど、全国紙が漢字を疎かにしてよいはずがない。

人は周りに自分をちょっとは理解してもらえる人が必要な気がする。私がこれを書いているのも、自分の考えや感じ方を分かって欲しいという気分が根柢にある。ある内容について誰かと話してみたい、相談してみたいというような時に誰もいないようなことになれば、楽しさが半減し、いつの間にかそのことが闇の中に消えていくことになる。ここで凹んでいては一人相撲になってしまう。                                               髭じいさん

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