無に帰す

無という字は本来「まふ」という意味だったと言えば驚くかも知れない。いつの間にかこれに「無し」という意味が加わり、母屋であった「まふ」と言う意味を失うに至る。そこで新たに「舞」がつくられ、これが安定してきたという経緯がある。これを説明するのは機会があればやってもよいが、それほど面白いとも思えないし、この辺で勘弁していただく。

人は生きていくに最低限の衣食住は必要である。毎日生きていれば、ここをこうしたい、あそこをああしたい等という欲が出てくる。こういった欲は生活を豊かにするのであれば肯定したいところで、自分を小さく守るに終始するのでは縮こまってしまいかえって生きにくい。

かといって時々に能力を超えた欲を出せば、身を滅ぼすことになりかねない。こんなことは重々承知だが、若い時には身を持て余すし、壮年時代では当たり前のように分を越してしまった。歳をとってみれば、広げた風呂敷が大きすぎて上手に終活できない。

欲と言っても多種多様で、十人いれば十人とも異なるというようなものである。幸いと言うか、私は強烈な物欲とは無縁だったように思う。

衣食については少しばかり拘りはあるとしても、よれよれになった綿がお気に入りだし、無理のない程度に旬のものをいただければ文句はない。田舎で暮らすなら車が要るという人が多いだろうが、ボロい車さえ所有したことがない。市内を移動するのに冬でもスクーターと自転車でやり過ごしてきた。

人の価値は腕時計に現れるという人がいて、なかなか面白いと観点だと思うが、私はこちらに来て時計をハメた記憶がない。家についても一生借家住まいで終わりそうである。こうしてみると衣食住のどれを取り上げても興味が長続きしなかったようだ。

それでは支配欲や性欲等はどうか。若い時には人並みにあったとしても、焦がれるようなものではなかったと思う。かくのごとき欲は限りないものだが、心ひそかに描いているものとして名誉欲が少し残っているかもしれない。まあ、これにしても自分一人さえ支えられない人生であってみれば高が知れている。

自分では欲が少ない方だと考えて来たのに、振り返ってみると色々欲を出してきたなあというのが実感である。自分を押さえることもままならない爺としてゴールに向かっているのが寂しい気分になることはある。

だが待てよ、これらは私自身が望んできた人生ではないか。人並みとまでは言わないけれどそれなりに楽しんで生きてこれたし、周りを戸惑わせるほどの借金もない。無い無い尽くしの安い人生ながら、ゆらゆらと舞い、無に帰すのは本望である。                                              髭じいさん

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