ブレーキの遊び

自転車屋でブレーキの利きについての話になった。利きすぎて即座に止まるのはまずい。慣性によって乗っている人が前に放り出される。だと言ってあまり緩いと危ないこともある。利きには適度な遊びがあってこそ、適切な止まり方ができるというようなことである。こういった余裕があってこそ安全運転が可能で、バイクや車でも同じということになった。

これには前提となる流れがあった。私は難しい場面に出会うと思考停止し、正面に据えて取り組むことのできないことがある。同じことを何回かチャレンジして歯が立たないと討ち死にしてしまう。こうなると疲労困憊し、自分が無能であると嘆くことになる。こんなことが重なると、自分には才能がないとか能力が足りないだかの結論を出してしまう。これらは事実として正しそうだが、なんだか腑に落ちない。

つらつら考えるに、これは難問を間近に置きすぎて厄介な所ばかり眺めているからではないか。もう少し空間を開けて視野を広くすれば方針が見えてくることがある。まずは問題となっていることから適度な距離を置き、フレッシュな気持ちで改めて睨んでみる。自分の使える手段はそれほど多くないが、簡単なことを積み上げて組み合わせれば道筋が見えてくることもある。遊び心を有効活用するわけだ。

私の住む家は明治初年に作られた古民家である。私のお気に入りは、見える範囲すべて柱が石の上にのっている点だ。現代建築といえば隙のない基礎を打ち、筋交いや金具でがっちり組み上げる。それはそれで安心感があるものの、地震と向かい合って妥協なく闘っている印象だ。ところが我が家は石の上にのっているだけなので大地震ともなれば全体が動き、一気の倒壊を免れそうな気がする。これもまた、緩い遊びの部分を感じる。

人は病気になると追い詰められたような気分になって落ち込んだりする。死のイメージが間近に迫ってくると、勘違いして恐怖や絶望という文字が浮かび落ち着かなくなる。確かに死の間際まで痛いだの苦しいだのは勘弁してほしい。老いも同じで、背中に矢が迫っている気分からなかなか逃れられない。

人は病気や老いを避けられず、いずれ死ぬ他ないと分かっていても、いざ目の前に迫ってくると切羽詰まってしまう。また年を取って金がないとなると不安が募る。穏やかに老後を生きていくには金が要る。これが先細りすれば心までも細くなる。さもありなん。

だがこれらもまた錯覚に過ぎないような気がする。隙間なく考えるなら、絶対というのがなくなるから、不安が先に立つ。それでも日頃の生活からすれば喜んだり迷ったりしながら生きているわけで、例え涙を流しながら死んでも、感情豊かに生きられたというような意味があるのではないか。                                              髭じいさん

前の記事

新生

次の記事

無に帰す