京塚

京塚山は天気が良ければ毎朝眺めている山で、又高尾山と呼ばれることがある。京塚は八幡町市島の小字。これについては先行の研究があり、その結論は「佳名を選んだのか、京都とのつながりを強調するのか京塚と書くが、経文を埋めた塚である上は経塚と書くのが正しい」というものだ。

何かを付け加えるのもどうかと思い、躊躇してきた。私の感じた腑に落ちない点を少しここで書いてみようと思う。

簡単に高尾神社『由緒記』を見ると、確かに「故ニ一切經ハ其ノ高峯ニ埋メタリ、今ノ経塚コレナリ」とあって、経塚とする根拠が伝承されているように見える。

『由緒記』で登場する最も古い年号は「元歴年間」で、平安末期の12世紀末ごろのことだ。京都高尾の神護寺を模擬して、「今高尾山と呼ばれる山」に七堂伽藍を建立し繫栄していた。これを妬んだ比叡山の僧侶がこれに火をつけ灰燼にしてしまい、からくも一切經を高峯に埋めたと云う。だが公に伝わるのは京塚山である。

八幡から吉田川を遡っていくにつれて凡そ、赤谷山(あかだにやま)、朝日山(あさひやま)、稚児山(ちごさん)、京塚山(きょうつかやま)というように続く。稚児山は格別の山とすれば、その他は吉田川の左岸にある字名が同時に山名となっている。

つまり字赤谷が赤谷山、字旭が朝日山、字京塚が京塚山という具合に対応する。これは小字をもとに山名がつけられていることにならないか。

『由緒記』には「高峯ニ埋メタリ、今ノ経塚コレナリ」とあるのみで、遡って「経塚」だったとする伝承がない。「今」は明治時代にあたる。

経塚が広まったのは末法思想のはやった平安中期ごろとされ、弥勒信仰と深いかかわりがある。だが市島の京塚に弥勒菩薩との関わりを示すものは見当たらず、埋納したのは一切經ということになっている。

これらから字の「京塚」が先にあって、「経塚」は後に敷衍されたのではないかとも考えられるのだ。地名は先に伝承されてきたものが優先されるだろう。京塚の意味が忘れ去られ、経塚と混同されるようになって話が合流したのではあるまいか。経塚は決して忌まれる言葉でもないし地名でもない。これを京塚にする必然性が見えてこない。

以上、私は経塚ではなく京塚を原形とみている。「京」(『説文』五篇下141)は「京 人所爲絶高丘也」は「人のつくる所のはなはだ高き丘なり」である。また『呂氏春秋』禁塞の高誘注に「戦死者を土の中に塗りこめて京観を築き、これを京丘と呼ぶ」とある。

私はこの京塚を小野の「雲京」と関連付けている。郡上郡衙の設置に先立って、これに敵対した者の塚にしたと考えれば、「京ヶ野」などの解釈に生かせる気がする。                                               髭じいさん

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