必要に迫られる

ここしばらく独居老人で、自炊生活が続いた。風呂はシャワーになっても苦にならないし掃除も嫌いではない。ただ洗濯をしなくなっているので靴下の数が足りず、買い揃える他ない。
自由というのは不思議なもので、場面によっては日常の細々したことから解放されることであったり、逆に自分らしく家事をこなすことであったりする。
いずれにしても覚悟の話に帰着する。他から強制されることさえなければ、楽しく感じることがあるようだ。
ただこの強制と必要性は似ており、自分すら欺くことがある。少しでも強制されているという意識があれば、この精神状態から解放してやらねばなるまい。解放する過程でしか自由の意識は湧いてこない。
私にしてみれば、日常の仕事やら細々した家事は強制されているわけではない。むしろ自分が望んで選んできた。
家事を含め、このコラムにしてもライクワークになっている小学の入力にしても、続けるとなると鬱陶しいことがないわけではない。コラムなら、ぎりぎりまでテーマが決まらないことがあるし、仮に決まっても筆が進まないことがある。入力作業なら、余りに誤字脱字に気づくとすっかり元気がなくなってしまう。
しかし、つらつら思い出してみても、逃れたいと思ったことはない。前者なら、書きたいと思った原点へもどって構想を立て直したりする。難しいことを期待されているわけではないので、プレッシャーで押しつぶされるというようなことはない。ぼちぼちキーを叩いているうちに、考えがまとまることもある。まあ、実際にやってみるのがコツだ。
後者なら、いつものことなのでひと眠りしたり、散歩に出るなどして気晴らしすればリフレッシュして作業を続けられる。また、ふと何らかのアイデアが生まれたりしても俄然元気が出てくる。
なぜか、私は青年時代から煮物が好きである。近ごろ郡上味噌で里芋、厚揚げ、蒟蒻を煮たものが秀逸だった。一人前なので小さな鍋で十分だ。
郡上味噌は豆みそで、煮込んでも風味が落ちない。食べ尽くしても、残った出汁に豆腐やネギなどを入れればまた重厚な味になる。
この間、テレビのある番組でコンニャクを特集していた。なんでも短い時間で煮ても味の含みがよいという。水気を取ってから、小さく千切ってビニールの袋に入れ、少量の砂糖を入れて揉むというものだった。やってみると確かに15分ぐらいで味噌味が染みていた。浸透圧のなせる業らしい。
必要に迫られると実際に体を動かさざるを得なくなり、やってみるとそれなりに結構楽しめる。まだ少しは私も必要とされているかもしれない。

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