瓢岳(ふくべがたけ)の呼称

瓢岳については以前(2013年)にシリーズものとして取り上げてきた。私にとって一つの道標であるだけでなく、郡上史にとっても重要である。
やり残したことも多い。今回は、改めて呼称に絞って考えてみたい。これについては私もまた壮年期から追い続けてきたので、少しは新たな視点を示せるかもしれない。
郡上への文明や文化の伝播という観点からすれば、近代においては、殆ど南から新たな風が吹いているように見える。ところが近世、中世から古代へ遡るにつれ、より濃密に南北が交差する。
「板取の地名と郡上」では触れられなかったが、旧加部村の北に門出という集落がある。天正十七年(1589年)の検地帳では「かとてむら」と記されている。ところが享和三年(1803年)の仮名附帳では、「かといて」である。時間の順序が逆になっているけれども、「かといて」が原型だと考えてよかろう。揺れはあるとしても、音韻からすれば「かと-いて」から「かと-て」になったと解せる。「い」が略されているわけだ。
また、これまで「くる」(2017年02月27日付け)で「いでゐ」が「でゐ」になったのではないかと推定した。この他、美濃地区では「来てった(来て行った)」、「出てかん(出て行かない)」など「い」が消える例を考えてきた。
時代がやや下るが、柳田国男の『野草雜記』で「土筆」に関連して、「イヅコ(何處)をドコといふようになったのは近世だとすれば、云々」という文がある。
これもまた「イヅコ」の「イ」が脱落して、「ドコ」という語が生まれたことになる。これらから、「い」は少なくともこの地区では時代を超えて省かれていく傾向があるように思われる。
私は、これらと同じように「ふくべがたけ」も「いふくべがたけ」の「い」が落ちたのではないかと推測している。
この辺りでは伊吹山が「伊福部(いふくべ)」の祀る山だったという説が流布しており、長年疑問を挟んできたが、これを否定することは難しいように思われる。
これを前提にすれば、伊吹山と南宮大社がいずれも「伊福部(いふくべ)」に関連することになりそうだ。南宮大社は金山彦を主神とする美濃国一宮で、製鉄などの神としても知られる。
瓢が岳は郡上では南のほうに位置しており、地理上からも、南から影響を受けやすい。私はまた、郡上郡衙が白山信仰に対抗して、熊野信仰、牛頭信仰などと共に金山彦神などを保護したと推定している。つまりこれらをいつき祀る者たちが郡上へ入植することを奨励したのではないか。
小駄良の南宮神社は郡上一揆にも登場する古社であるし、大和万場にも南宮神社がある。これらがいつ招来されたのか分からないが、私はこの文脈で考えている。

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