無始無終

人の一生は、生れてから死ぬまで、始まりと終わりがあるように見える。一般に始まりがあれば必ず終りがあるのは確かだろう。ただ、これは全てに当てはまる真実というわけでもなさそうだ。

自我がどこで、どの時点で始まったのか分からず、今の立ち位置もはっきりせず、終着点も判然としないのなら、まったく始末がついていないことになる。かく言う私は、このような五里霧中の生き方をしている。

仕事については、学生時代からダラダラ続けており、特にこれをやろうとかは思いつかなかった。自分のやれることをやってきだけで、高邁な理想を持ったことはない。、

それなりに誠実にやってきたつもりでも、何回かクビを言い渡されたことがある。組織の中でも自分の意見を変えないところがあり、協調性に欠けていたのは事実だったと思う。

こちらでは自由業なので自分のやり方を通せばいいとしても、世間が狭いので、我儘ばかりはできない。自分が壊れない程度で調子を合わせてやっている。

日頃やっていることなので、やりがいについて腰を据えて考えたことがないように思う。身近な人に聞いてみたことは無いが、生きていて誰か他の人の役に立っている実感もないし、それはそれで仕方のないような気がする。

私はライフワークとして辞書みたいなものを作っている。これもいつごろから始めたのかはっきりしないし、成果が出ているのかどうかも分からない。途中、幾らか自分の道中が見えていた時期があった。だが、よく考えてみると、丸っきり錯覚であることが判明した。

自分に幾らかでも能力があると感じ取れているなら殘酷なことになっていたはずだが、そんな自信を持てたことがないので、昨日と同じことを繰り返しやっていてもへこたれない。

とは言え、此れだけ歳をとるとゴールがまぢかに見えてくる。無力感にさいなまれ、続ける気をなくしてネットサーフィンを長々やってしまうことがある。

よく寝て目覚めの良い時には、ルーティーンを取り戻し、せっせとキーを打つのでご安心を。近ごろでは、成果の出る出ないは意識から遠のいて、ひたすらやり続ける毎日である。

これほど長く生きてきたのに、かくの如きディレンマの中に居る。若い時なら混沌の中にあっても、どうにかなりそうな気がしていたのに、今となっては始めも終わりも分からない。静かに幕引きができるようなけじめがつけられないのだ。

かくなる上は前を向いて倒れる他ないが、どこが前かも分からない始末で、はてどうしたものやら。                                               髭じいさん

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