顛倒(てんどう)

 お釈迦様は、人間は顛倒したあり方をよしとして生きているといわれた。“顛倒”つまり人間の考えはひっくりかえっているということである。それは言い換えれば、因果の正しい道理に暗いということ。全てのことがらが因果の道理によってあらしめられている、その事実に無知であることから事実を見誤り、本当のことを正しく見定められないということだといえる。
 稲穂が一斉に緑の頭を垂れ始め、数週間もすれば黄金色に稔りもみとなる。もみは種が水と気温と光などの縁(条件)を通して、やがて実となった結果である。因と縁とは果の道理はうなずける。しかし、自分自身の行動や態度、姿勢となる因果の道理になったとたんに無明性を露にしてしまう。
 もう数年前のこと、毎月5日までに提出しなければならない報告書を、4日の夜になって思い出した。その夜、あわてて作成し、妻に明日速達で出してくれるように頼んだ。翌日は早くに京都へ会議のため向かい、帰宅したのが夜9時過ぎであった。ところがすぐにテレビの上の封書に目が止まった。妻にどうして出してくれなかったのか厳しく詰問した。妻は「ごめんなさい」と素直に謝ってきた。しかしあれだけ頼んでおいたのにとなお追求する私に妻は、朝から何人ものお客さんがあって、つい忘れてしまったのだという。そう弁解する妻をなおも許そうとはしなかった。そんなしつこい私に妻が逆襲してきた。「そんなに大事なものをなぜもっと早く提出しなかったの。あなた自身、昨夜まで忘れていたのでしょう。忘れた私をそんなに責める資格があるのですか」ときた。人間、けんかの最中に相手の言葉がまともにあると知らされると立場を失う。その後は、私の場合はさらに威圧的な暴言を吐くか、沈黙の行に入るかのいずれかとなる。この時は妻との会話を絶っていた。しかし、それで困ったのは自分自身である。じゅばんの場所、定期預金の証書のありかが分からない、聞くのもしゃくである。それでいて妻は平然としている。3日目耐え切れなくなって「今晩トンカツにしてくれ」で妻との関係改善の口火を切った。
 妻が忘れさえしなければ、ケンカにならずに済んだと思う私は、そういう私自身のありようを考えることがなかった。私に寛恕の心が豊かであるならば「私も忘れていた、妻が忘れるのも無理はない」とケンカにならずに済んだはず。(なかなかそうはいかないが・・・)結局、忘れたという縁のもよおしによって、許せんぞと私の煩悩が立ち上がった。その結果がつまらん3日間の暗い生活となり、周りにも灰色の空気を漂わせていたに違いない。「南無」と本当の自分に帰る世界を忘れると、因果の道理を定める知慧は曇り、顛倒の事実を気付かされることもないのだと改めて教えられる。

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