S医師のこと

 1月11日はZABADAKにとって久しぶりのホールコンサートだった。僕としてはどうしても万全な体調で臨みたかったのだが、年末からの風邪を引きずってしまい、なんということであろう、10日にはほとんど声が出なくなってしまったのだ。 藁にもすがる思いで、以前劇団キャラメルボックスを通じて知り合ったS医師を訪ねた。S医師は耳鼻咽喉科のお医者さんで、多くの役者や歌手から「奇跡の医師」とまで呼ばれ、信頼されている人なのだ。絶望的な気持ちで診療所に現れた僕に「コンサート、明日でしたよね」、とたちどころに状況を察してくれたS医師は「だいじょうぶ、私が直します。」と言ってくれたのである。涙がにじんだ。
 丁寧な診察の後、すごくでかい注射を左手に打ってもらった。「今日の夕方には八割方戻るでしょう。明日楽屋入りの前にもう一度診て、微調整をしましょう。」と言って下さった。なんと翌日は休診日なのだ。お休みにも関わらず、僕の喉の万全を期すために出てきてくれる、という訳なのだ。ありがたくてもう、感激しっぱなしである。
 S医師の言葉通り、夕方には大分声が戻ってきた。お酒も飲まずに睡眠薬でこの日はぐっすりと眠った。コンサート当日、僕の声はほとんど戻っていた。まさに奇跡である。微かに高音にかすれがある程度だ。休診にも関わらず診てくれるS医師を再び訪ねる。
 11時半の約束なのだが、現れない。「忘れちゃったのかな、でも、ここまで直してくれたんだから、それだけでもありがたいことだ。」などと考えていると、15分ほど遅れてS医師が息せき切って走ってきた。「ごめんなさい、ごめんなさい。出掛けに電話がかかって来ちゃって、遅れました。早速診てみましょう。」診察室の鍵を開け、手早く白衣を身につけたS医師にもう一度診察してもらった。「ああ、ほとんど炎症も収まっていますね。薬が良く効きました。もう一度注射をして、それで今日のコンサートはバッチリです。」本当に助かった。「ありがとうございます。」注射を打たれながら驚くようなハナシを聞いた。「実はさっきかかってきた電話というのはですね。名古屋にツアーに行った歌手の方が今日本番なのに声が出なくなっちゃって、何とかならないか、ということだったんですよ。」「ああ、僕とおなじですね。たいへんだなあ。」などと相づちうっていると、「それで、これから診に行って来るんですよ。」「えっ?名古屋へですか?」「そうなんです。これから名古屋に行って診療して戻って、吉良さんのコンサートに向かいます。私がここで開業しているのはこういうときのフットワークのためなんです。」なんということだろう。S医師の診療所はたしかに東京駅のすぐそばにあった。しかし、患者さんのために名古屋まで往診に行くお医者さんを僕は知らない。こういう人が、世の中にはいるのか。これが「奇跡の医師」の奇跡たるゆえんなのか。僕は今度こそ本当に感動していた。
 「じゃあ、頑張って下さい。」S医師の励ましの声に送られて、僕はコンサート会場のある中野へと向かった。もう喉には何の違和感もない。昨日の朝には考えられなかった回復振りである。喉だけでなく、なにか心の中にも暖かいモノをいただいたような、そんなS医師との出会いであった。今年一番のすばらしくいい気分で僕は歩いていった。

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