小学校に行ってみる。

 僕には五歳になる子供がいる。三月生まれなので三月が来ると六歳になる。そして四月には小学校に入学するのである。なんということであろう、と思う。この六年間の過ぎかたのあまりの早さにおもわずカレーを食べるスプーンも取り落としてしまうしまつである。息子の感じた六年間と僕の感じた六年間がまったく速度の違うこともまた僕を愕然とさせる。もっと「でんでん」だの「ばぶーしか」だの訳の分からないことをしゃべる赤ん坊の息子と時間を過ごしたかった、と思っても思っても、それはかなわないのがなんとも無常だ。しかし、そのような甘ったれたことを考えているのはどうやら父親だけのようで、母親も息子本人もすでに腹をくくっているようなのだ。昨日は家から小学校までの道を初めて歩いてみよう、というのだ。そうであった、まだ歩いて行ったことは無かったんだ。
 小学校はいままでの保育園の反対側にあって、その辺りははお店などもないのであまり足を踏み入れたことのないエリアであった。途中、クルマも少なく、気持ちの良い住宅街の中の通学路だった。「なかなかいい感じだよな。」「虫は捕れるかな。」などと話しながら家から子供の足で約20分で到着した。
 かなり大きな学校だった。しかし一学年四学級しかないそうである。あまっている教室がいっぱいあるらしい。僕たちの頃とは大違いである。僕は小学校には三つ行ったけど、どこも八クラスぐらいあったように記憶する。なおも増え続ける子供達のために校庭にプレハブの小屋が建てられ、そこに入れられた子供達は蒸し風呂のような真夏と凍ってしまいそうな冬、という過酷な日本の自然を体験する羽目になったりしたものだ。
 さて、息子のいく小学校は校庭もゆったりと広く、すみっこのほうには「うんてい」だの「はんとうぼう」だのの懐かしい遊具が並んでいた。大きな鳥小屋ではニワトリやインコ達が静かに休息をとっていた。日曜日で閑散としているのにのんびりと日溜まりのような暖かい空気が流れている。
 いいなあ・・・。覚悟の出来ていないお父さんはこんどは息子がうらやましくなってしまった。「ここでおまえの生活が始まるのか。」誕生してから今日までと同じ次の六年間、という彼にとっては永遠にも近い時をここで過ごすのだ。友達が出来たり、大親友ができたり、やなヤツがあらわれたり、いじめたり、いじめられたり、恋のまねごとだってするんだろう。そんなことを考えながら校庭を眺めていると、僕はしみじみと息子のことがうらやましくなってしまったのだ。
 さらにうらやましいことに、学校の裏手はこれが東京か?と思うような雑木林が広がっていた。サクラやケヤキ、嬉しいことにクヌギやコナラもたくさんはえている。「ここならカブトもクワガタもとれるぞ!」と言うと、息子も「やったあ!」などと喜んでいる。新しい友達とこの林を我が物顔に走り回るがいい。あやしい探検隊を組織して秘密基地を作るがいい。もうお父さんはうらやましいという段階をこえてしまっていた。「俺もここ来るから。」なのであった。
 そして、帰り道では僕もすっかり子供の入学が楽しみになっていたのだ。まあ、単純と言えば驚くほどに単純なお父さん、ではあった。

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