歴史家の仕事

現在外交上の問題になっているので、ここで靖国神社について触れるというのも気がひけるが、敢えて火中の栗を拾わねばならないこともある。
近代においては、国家間の戦争は大義を掲げ、互いに力の限り戦う総力戦である。大抵は勝者と敗者に分かれる。勝者は大義が戦争によって確かめられたかのように錯覚し、自らが正義であると主張する。正義であるから、払った代償を敗者に求めるだけでなく、敗者の指導者を「裁判」にかけ戦争犯罪人と定義する。だが、勝者が英雄で敗者が犯罪人では理屈に合わない。戦わざるを得ない場合があるとしても、この世に正義の戦争というものはない。
日本は、この前の大戦で朝鮮半島や中国などへ侵略し、諸国に多大な損害を与えただけでなく、モラルに欠ける行為もした。侵略された国が、日本にこれを繰り返さないよう求めるのは当然である。
あのような事態を再び招かないようにするには、まず互いに何をしたかを知らなければならぬ。戦時中に起こったことを十分客観性のある史実として、それが如何につらいものであろうと、国民の前にさらけ出さなければならない。
歴史家は、日本が中国などで行った行為を検証し、歴史事実として内外に公表する義務がある。学者が個別に研究するだけでなく、とりあえず日中韓共同による学会のようなものを立ち上げて、議論を重ねて欲しい。
無論、この過程で感情やいわゆる「政治的配慮」の入る余地はない。歴史家は史料にのみ縛られる。互いに妥協せず研究し、それぞれの「史実」をある程度定説化して欲しい。これこそが歴史の遺産となり、生きた教訓になるからだ。
確かに日本における教育者や政治家は、このような「史実」が提供されておらず、気の毒な立場に立っている意味はある。
靖国神社は「宗教施設」であり、公人として参拝することが憲法に違反する疑いのある以上、賢明なる政治家であればこれを避けるべきだろう。
だが、政治家が下心なく戦争犠牲者を追悼し平和を希求する為どうしても公式に参拝したいのであれば、例えば南京などの犠牲者に必ず公式に追悼の献花をするなど、バランスの取れた行動をしてもらいたい。

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白山奥院(1)