里芋

若い時にはとにかくジャガイモで、カレーやコロッケ、肉じゃがやポテトサラダがうまかったし、これが当然だと考えてきた。今でもこれらには心惹かれており、嫌になったわけではない。他方けんちん汁や筑前煮に入っている里芋は、粘って歯ざわりも今一つ気に入らなかったし、なんだか独特の「あく」があるような気がして、特別うまいとは感じなかった。
里芋が美味いと思ったのは、友人宅で煮っ転がしを食べた時である。何気に、一皿として出して頂いた。その時は、丸い小さな芋を煮てあるだけで、食欲をそそる色をしていたわけでもない。
だが食べてみると、さほど粘らず、味付けも誠に自然で、「あく」だと思っていたのがうまみであったことを思い知らされたのである。
それ以来、私の里芋観が変わったと思う。土の付いた芋が、何だか、うまそうに見えるようになった。
郡上では里芋文化が根を張っており、無論それだけで煮っ転がしにしたり、イカと煮たり、刻んで豚汁に入れたりして食べる。ここらしいと思えるのが、小さなものを皮つきで軽く煮てから火であぶり、皮をむいて、ショウガ醤油でいただく食べ方である。皮をむいて焼く場合もあるらしい。酒のあてとしても結構人気がある。
我が家の場合、多少大きめの里芋は薄く切って味噌汁に入れるし、適当な大きさのものはやはり煮物にし、小さ目のものはそれだけで煮っ転がしにするのが良いように思う。
まあ、私は「頑張る」とか「努力する」ということを好まない。食べ物でも、頑張って食べるなどというのは何か的が外れているように思い、子供にも躾てこなかった。
里芋については、年をとって、嗜好が変わったという見方もできる。が、食べられなかったものが食べられるようになるのは人生が豊かになることであるし、左程でなかったものを美味いと感じて食べられるようになった嬉しさを伝えたいのである。

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