小さな真実

真実に大きいや小さいなどと笑止な区別をつけるのも、単に説明しやすくするためであって、他意はない。
私は「犬も歩けば棒に当る」式のやり方が性にあっている。根をつめて、真実を求めるというような性分ではない。論理が自分や身の回りの人を傷つけ易いと感じてきた。旅にしても、見聞を広めるとか、何かを実証しようという気持ちでは出かけない。何度やっても、弥次喜多道中である。
重要な仕事についても、それに集中するという考えは浮かばない。ほとんど、「one of them」と捉えてきたと思う。
私のやり方でも、たまには、「棒に当る」ことはある。これにしても、喜び過ぎることが多かったので、最初から用心してかかる癖がある。幾らか手ごたえのあるものを根拠にして、理詰めで展開するなどというのは不得手の部類である。やっと自分の視野がどれほどのものか寸法が測れるようになったということか。
だからという訳でもあるまいが、私は気になったものでも視点を変え、時間を置き、それでも残ったものしか正面には据えない。従って、取り上げた時点で、大抵「冷えたラーメン」みたいになる。私にとっては「旬」であっても、皆さんにとってはどうかなあ。
傲慢であっても、私は自分のやり方を変えるつもりはない。ただ、毎日疲れすぎないように注意してはいる。疲れていれば、棒に当ったことすら気づかないからである。
手ごたえのある「小さな真実」をいくら積み上げても、ジグソーパズルのように「大きな真実」になることは稀だろう。
だとしても、砂上の楼閣をつくるのもまた性分であるから、生きている以上これをやり続ける他なさそうだ。私には「小さな真実」を組み立てる作業が面白いのである。