八俣の大蛇(3) -その出身地-

前回は、「高志(こし)」は「越(こし)」ではないかと考えた。今回はこの「越」がどのぐらい実態のある語なのかを検証してみなくてはならない。
「高志の八俣大蛇」以外に、主として次のような用例がある。
1 「此八千矛神 將婚高志國之沼河比賣」(上巻)
2 「又此之御世 大毘古命者 遣高志道」(中巻 崇神記)
3 「大毘古命 罷往於高志國之時」(中巻 崇神記)
4 「自尾張國傳以追科野國 遂追到高志國」(中巻 垂仁記)
5 「經歴淡海及若狹國之時 於高志前之角鹿」(中巻 仲哀記)
この他にも、「高志之利波臣」「高志池君」などが見られる。1は『和名抄』で「越後國頸城郡沼川郷」に当てられ、2・3は『書紀』で「北陸」とされる。いずれも本気で実際の地名に当てている。
4の例は「科野(信濃)國」から「高志國」へ行く道程で、どうやら越中へ行くらしい。5の例では「若狹國」から「高志前の角鹿」へであり、恐らく越前へ行く道順が示されているだろう。
これらが同時期の勢力圏を示しているとは言えないまでも、地上のことであり、この「高志國」が何らかの実態に基づいていると考えてみるのはどうだろう。単なる作り話では、何だか出来過ぎのようにも思える。
他に有力な候補も見当たらないので、『古事記』の用例から、「越國」は越前、越中、越後を含む地域を想定できるのではなかろうか。だが、この広域から大蛇の出身地を探るなど不可能に近い。
ところで皆さんは、越中立山の主峰が「大汝(オナンジ)」と名づけられているのをご存知だろうか。私は「越南知(ヲナンチ)」が原形で、「大汝」は後の形であると説いてきた。ならば、原形に拘ってみたくなるのが成り行きである。