大化の改新(2)

大化という年号の実態について微妙な話がある。実を言うと、私は今でも迷っており、皆さんの判断を仰ぎたい。
京都府宇治市にある宇治橋の東畔に橋寺というお寺がある。寛政元年(1789年)八月に石碑の上部にあたるほぼ三分の一が同寺内から発見された。いわゆる「宇治橋断碑」というものである。
宇治橋断碑は日本における最古級の石碑で、『帝王偏年記』に碑文の全文が記録されていたが、少なくとも発見された上部に関してはこの記事が正しいことを証明した。発見された断碑にある「道登」という人物は実在らしく、『日本書紀』の大化元年条にその名が見える。
この『帝王偏年記』の中に「大化二年 丙午之歳」とあり、大化という年号が記載されている。「丙午之歳」は、正しく大化二年の干支で、646年にあたる。
問題は、「大化二年 丙午之歳」と記載された部分がまだ発見されていないことだ。一応『帝王偏年記』の記載に関して、その一部が正確であることは認められるが、まだ発見されていない部分をもとにしっかりした歴史観を組み立てられるのかという点で自信が持てないのである。
法興という年号については、法隆寺金堂の釋迦三尊に「法興元丗一年(621年)歳次辛巳十二月云々」という銘文がある。また『伊豫國風土記』逸文に「湯岡側碑文」というのがあり、「記云 法興六年(596年)十月 歳在丙辰」と記録されている。従って法興についは、『書紀』に記載がないとしても、信憑性が高いと思われる。
白雉については、『新唐書』に「初其王孝德即位改元曰白雉」とあるが、孝德の即位に関してそのまま事実とは思えない。
これらから、大化を日本国の年号と認めるなら、法興-大化が脈絡なしに登場したということになる。

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