人物画像鏡(6)

「日十大王」を「日夲大王」に読めるのではないかと述べてきた。「本」「夲」が通じることは、隋代までは『廣韻』から『切韻』へ遡っていけそうなことは示せたと思うし、これから更に遡ることも可能で、五世紀半ばまでは中国の金石史料で確認できる。また、隷書でも「本」「夲」が通じる証拠もある。
だが、この仮説の弱点又は課題を示しておくのがフェアというものだろう。
1 中国の同時代に金石史料で「夲」を「本」に代用する例があるからといって、百済の同時代史料に「夲」の用例がない。
2 武寧王の墓碑銘で「百濟」を「百済」と略体を用いているから、六世紀初頭の百済においても略体が使われているのは間違いあるまいが、画像鏡以外に、実際「夲」を「十」に略した例が見当たらない。
などである。
確かにこれらは、史料の解読にあたって実証に関わる重要な点であり、無視できないのは勿論のことである。
「八月日十」を「八月十日」とする井上説を除き、他の説はこの鏡を日本国で作り、銘文を仮名で表記したと前提して、「日」を「ヒ」「ヲ」「ジ」、「十」を「ソ」「ジュウ」「ト」と読んでいる。勿論、五世紀末あるいは六世紀初頭に仮名が成立していた可能性も更に追求する必要があるだろう。
また、百済が日本国の仮名で製作したと考えることもできないことはなかろうが、まあこの場合は、相当根拠が必要な説である。
学説史からは「十」をそのままの字形で説く方法しか得られないが、「十」を「夲」の略体とするこの仮説には新たな歴史学の視点を与える可能性を秘めているのでないかと密かに自負している。

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