人物画像鏡(11) -通読-

今回は、今までの検討を纏めて銘文全体を読んでみることにする。これからの課題を見つけ易くする狙いがある。銘文は、混乱を避けるために、一応教科書にも載っている通説を採用してある。全文を示しておくと次の通り。
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人等所白上同二百旱所此竟」
1 「日十大王年男弟王」を二人とみて、「日夲大王年と男弟王が」とする。
用例からして「日夲大王年」は「日夲・大王・年」であり、癸未年で年がかぶること、実際の年代がしるされていないことから、「年」は年代ではなく大王名であり、また「男」「弟」が『古事記』の仮名にはないことから「男弟王」を漢語に解した。
2 「意柴沙加宮」については諸説あり、今後の課題とする。
この1、2の「日夲大王年・男弟王」、「意柴沙加宮」を比定するには『梁書』及び記紀などの史料評価が必要であり、容易でない。これこそが日本史の根幹に関わると考えられるので、慎重に進めたい。
3 この仮説では、「斯麻」が百済斯麻王だから、「癸未年八月」は503年8月である。
4 「開中費直」は解氏の姻族又は食客の費氏直。
5 「穢人今州利」は「穢人・今州利」とし、一応濊人の今州利(コム・スリまたはキム・スリ)に解しておく。
6 「所」とすれば二箇所あり、前者を「所取」、後者を「所作」とする。
これらを纏めると、次のようになる。
「癸未年(503年)八月、日夲大王年と男弟王が意柴沙加宮に在る時、斯麻長奉を念じ、開中・費直及び穢人・今州利二人等を遣り、白上銅二百旱を取り、この鏡を作る」
小修正の必要な点が出てきそうだが、本筋はあまり変わらないと思う。