コーヒーカップ

我が家には、ひびの入ったコーヒーカップがある。今もこのパソコンの横にあり、朝からずっと手にしている。白地に紺の釉薬でトンボの絵柄がついているが、陶器で、地味なものである。なぜ、ひびがはいっている物を捨てずに使っているかを書いてみようと思う。
我が家は決して裕福とはいえない。借家であるし、車も持っていない。しかし、貧乏だから割れかけのカップを使っているわけではない。なぜかカップは相当数を使いまわしており、むしろ一軒あたりでは多く持っている方かも知れない。
皆さん覚えておられるでしょうか。1995年1月に阪神淡路大震災が起き、我が家も震度6強でゆすられた。郡上を引越し、故郷の明石に帰っていたときのことである。テレビは吹っ飛び、食器はみだれ、足元にはガラスが散乱し、何のことだか理由がよくわからない程だった。このカップも飛ばされたのか、少し落ち着いてから見るとひびがはいっていた。こんなもの捨てればよいのに、なぜか分からなかったが、捨てるに忍びなかった。
それから、十二年。毎年この時期になると、夏用として、このカップでコーヒーを飲んでいる。今ではなお更、捨てる気にはならない。このカップの割れは段々ひどくなっているようで、どうしても私自身を見ているように感じてしまう。あの時に受けた様々なダメージのうち、心の傷が一番後まで残っているのかもしれない。
しこりが気負いになったのだろうか、死ぬまで震災を語らないつもりだったのに、十年たってやっと少し客観化して考えられるようになった。このカップのおかげで、割合自然に書けている気がする。
ここまでくれば、すっかり割れてしまうまで使うつもりでいる。カップに語りかけて慰めあうためではない。むしろ、あの状況を共有した戦友として、互いに最後まで看取るためである。