人物画像鏡(13) -倭国と日本国-

人物画像鏡(5)で倭国と日本国が並立したことを示したが、もう少し展開したいのでこのテーマを選んだ。倭国を日本国と同一視する歴史観では、この鏡の持つ史料価値を評価しきれないのではないか。
梁朝が倭王武を任官したのが502年、人物画像鏡で百済斯麻王が「日夲國」に鏡を贈ったのが翌503年の8月と考えてよかろうから、倭国と日本国の関係が具体性をもって検討できるのではないかと述べた。
倭王武が、任官直後この地位を捨て、日本国を立ち上げて大王を名乗り、直ちに百済が承認した上、この鏡を贈るというのは忙しすぎる。よって、この銘文を倭国と日本国を別国と考える根拠の一つに数えた。
『梁書』に倭国・扶桑国など数カ国あったことが記されているから、六世紀初頭列島に複数の国家があったことを改めて強調するまでもないだろうが、何でもありだから、倭国と日本国につき外交上でも確認してみようというのである。
『宋書』によると、倭国は劉宋代の太祖元嘉二年(425年)、倭王珍が「使持節都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」を自称し、除正するよう求めた。
また世祖大明六年(462年)、倭王武がやはり「使持節都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」を自称したと記している。
これらから倭王武が、百済を自国の勢力圏であると主張していることが分かる。これは少なくとも倭王珍以来の国是であったと考えてよいのではあるまいか。つまり、倭国と百済の間には、長年剣呑な関係が存在していた。
百済はこの倭国のみならず、高句麗や勃興しつつあった新羅を正面に据えなければならず、倭国と直接戦うことを避けねばならなかったであろう。私は、斯麻王が倭国を牽制するために「日夲國」を承認し、その一環としてこの画像鏡を贈ったと考えている。