人物画像鏡(15) -扶桑国と日夲国-

画像鏡の「日十」は、東にあって扶桑の木が立ち、羿が九つ射て、残った日の出る国つまり「日夲國」と解した。扶桑と言えば、『梁書』東夷傳の記す「扶桑國」が思い浮かぶ。同時期に存在したことは確かだろうから、両者の異同を確かめる必要がある。私は次の二点に注目している。
1 「日夲」と「扶桑」が、類義というより、「神木から日が出る」という意味でほぼ同義である。
2 同扶桑國条に「乙祁」という王名が記され、これが音韻上記紀の「袁祁(弘計)」に通じること。「日十大王年・男弟王」の「男弟王」とも対応しそうだ。この時期の日本国王中で、中国史書に記されている可能性がある唯一の人物だから慎重に取り扱いたい。
六世紀初頭にあたるこの時期は後発国家でも、ある程度制度を整え、中国などとの外交でも新たに登場するようになっていた。新羅を例にとって比べてみよう。
『新羅本紀』第四智證麻立干四年(503年)条に、群臣が「始祖の創業以来、国名が未定で、或は「斯羅」、或は「斯盧」、或は「新羅」と称してきました。臣らが思いますに、「新」は德業が日に新たで、「羅」は四方全てを網羅する意味があります。すなわち「新羅」を国号にするのが宜しいと存じます」と上言した旨を記している。この「新羅」が『梁書』で始めて立伝されることはよく知られている。
無論、「斯羅」「斯盧」及び「新羅」が必ずしも同一国家を指していたとは言えないが、この当時のそれぞれの呼び方に歴史の流れが隠されていることは確かだろう。この国家名称の「ゆれ」は、時期や地域差及び自称・他称などが関連すると思われる。
「斯羅」「斯盧」「新羅」が類似音による国家の異称とすれば、「加羅」「加耶」の例とも考え合わせ、画像鏡の「日夲」と『梁書』の記す「扶桑國」が同義による異称と考えられないか。
同扶桑國条に、恐らく高句麗の影響下で扶桑国での仏教伝来と官僚制度が記されており、同国が新進国家の体裁を整え始めていることが分かる。百済が高句麗及び倭国を牽制するために、これを「日夲國」と呼び、外交の対象として承認したのではないか。いずれ倭国に対抗できる勢力として評価したかもしれない。