人物画像鏡(17) -百済の戦略-

今回は、画像鏡を百済の側から位置づけようという試みである。倭国と日夲国が並立したことを傍証する意味もある。
『宋書』東夷傳・倭國條で倭王武は、有名な表で「跋渉山川 不遑寧處 東征毛人 五十五國 西服衆夷 六十六國 渡平海北 九十五國」とするから、列島を征服しただけでなく韓半島南部をも平らげたと云う。
これがどのような意味でそうなのかはっきりしないが、農業では国家経営が充分でないため、倭国は略奪を含む交易を国家の生命線にしていた可能性がある。
またこの中で彼は自ら、「自稱使持節都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」と述べている。つまり、彼は韓半島の百済、新羅、任那、加羅などを自国の勢力圏と主張している。
だが百済は『宋書』に百済条として立伝されており、中国にその独立を承認されているから、実際には倭国とは対等の関係にある。
従って百済は、この立場をより強固にするため、倭国の主張する新羅、任那、加羅を倭国から切り離し、列島においても倭国に対抗できる勢力を育てようとしていたのではないか。
斯麻王の時代ではないが、『南齊書』東南夷傳に加羅條が立伝され、「建元元年(479年) 國王荷知使來獻」とある。百済との関係がはっきりしないものの、加羅が中国と自立外交を始めている。
この文脈からすれば、この人物画像鏡は、斯麻王が日夲国と外交を開き倭国の影響を最小限に抑えようとしたことを示すのではないか。或いは日夲国が任那・安羅などに関連したからかもしれない。
『梁書』東夷傳・新羅條に「普通二年(521年) 始使使隨百濟奉獻方物」とあり、斯麻王の晩年、百済は新羅の使いを従えて梁に朝貢したことが分かる。
これらから百済は、その国家戦略として、倭国の力を削ぎ、高句麗と対峙できる体制を作り上げようとしていたと考えられよう。