人物画像鏡(16) -大王-

日本史の骨格に当たるところだから、多少詳細にわたることは辛抱してもらえると思う。できるだけ楽しめるようにしたい。
東夷の中で高句麗や倭国といった先進国家は言うに及ばず百済や加羅でも、中国との外交を始めると「王」という形で任官される。これに対し、ここでは日本国が「大王」を名乗っている点を考えてみようという段取りだ。
前にも引用した『新羅本紀』智證麻立干四年(503年)十月条に、「又觀自古有國家者 皆稱帝稱王 自我始祖立國 至今二十二世 但稱方言 未正尊號 今羣臣一意 謹上號新羅國王 王從之」という記事がある。
この中で「稱方言」は、王号を「尼師今(ニシキン)」とか「麻立干(マラハン)」などと方言で呼ぶことを指し、これからは外交上も通りのよい「新羅國-王」と呼ぶことを王も認めたと云う。加羅でも元は「干岐(カンギ)」などと呼ばれていた。
「日十大王」を「日夲大王」と読めれば、「大王」と呼んだのであるから、百済がこの「日夲」を中国と公式外交を開いていない国と考えていたのではないか。
稲荷山古墳出土の鉄剣に記されている「獲加多支鹵大王」は「獲加多支鹵-大王」と読めれば、一応「獲加多支鹵」を人物名として、やはり「大王」と呼ばれていることになる。これにしても、中国と公式に外交関係を結んでいないことが推測される。倭国が後漢以来連綿として中国と外交関係を結んでいるのと比べれば、倭国と日本国を同一視できない根拠がここにもある訳だ。
これらからすると、「大王」はまだ外交の舞台に登場しない小国家が自らを「夜郎自大」に呼んでいる気配がする。
なぜ日夲国の王が漢語の「大王」を使っていたのかは分からない。北朝でも使われた形跡があるから、高句麗からの影響があるかもしれない。また『駕洛國記』に「以之蹈舞 則是迎大王 歡喜踴躍之也」という気になる史料があってやはり大王と呼ばれており、或は別の系統だった可能性もある。