人物画像鏡(19) -男弟王の比定-

いよいよ男弟王である。日本史の根幹に当たるところで、様々な要素が入り混じり、複雑な様相を呈している。
1 「男弟王」の「男」「弟」を仮名とみて、「オホド」と読み、継体天皇とする。
2 「日十」を「ジジュウ」と読み、允恭天皇とその「弟の王」とする。
3 斯麻王の男弟王とみる。
等である。この他503年8月から『日本書紀』の年代を信じてそのまま武烈天皇とその弟に、或は実在性の確かな倭王武とその「男弟王」にあてるなどもある。それぞれ一家をなす説であるから軽くは扱えない。武烈説は、彼が仁賢天皇の子であり、「男弟王」と共に統治した形跡がないから無理がある。私は、「日十大王年」を「日夲・大王・年(名)」と考え、「男弟王」を漢語として大王・年の弟と読んでいる。また、倭国と日本国が並立していたと考えており、倭国の王である武の弟にあてることはできない。
さて、1の継体説は年代も近いし、「男弟王」を「オホド」とも読めそうなので、結構これを採用する人もいる。だが、年代が近いといっても継体即位以前の鏡であり、仮名で読む根拠も確かでない。
2の允恭とその男弟説も、大王を「ジジュウ」と他に例のない音仮名で読む点に不安があり、贈り手の「斯麻」がどうしても格下の人物になってしまう。
3について、男弟王が前にあり斯麻が後にあることから文脈上苦しい。仮に斯麻の男弟王としても、彼に兄弟がいて、かつ「日十大王年」と共に「意柴沙加宮」にいたという根拠が見当たらない。
私は、既に行った史料評価から、「日夲・大王・年」と「男弟王」が兄弟であり、共に「意柴沙加宮」に居を構えていたことを優先させたい。
また、私は一応この日本国と扶桑国を同一国家だと考えており、この年代に近く、実在性があり、男弟・王を中心として中国との外交を念頭においていたとすれば、「乙祁」しか思いつかない。この乙祁王が顕宗天皇の諱である「袁祁」と通じることは間違いあるまいし、彼が即位について兄である仁賢天皇といわくがあることも後押ししているように思える。
『日本書紀』と年代がずれることや音韻については、いずれ示すつもりである。