とちの実

若い人が田舎で暮すとなると不便なことも多いだろう。私は、あちこち飛び歩いて生きてきたので、じっと田舎で暮らす生活が気に入っている。四季の風を受けたり、透明な空気を通して月や星を見るなども、私にはご馳走である。ご馳走と言えば、新鮮な山の幸を食べるのも楽しみだ。
初めて「とちの実」を見たのは二十歳のころで、何故か鮮明に記憶に残っている。当時、私は登山の真似事をしており、信州の山にも登っていた。峠へ向う梓川沿いの山道で、所々に実が落ちていた。二三個拾ってみたが、それまでろくに栗を拾ったこともなかったから、栗に似ているなと思った程度である。ただ何度も見るうちに、なんとなく形が栗とは違うと感じ、林の中へ捨てたように思う。
何かの折に先史の人々が食べていたことは読んでいたが、実感は全くなく、食べ方や味も見当がつかなかった。こちらに落ち着くまで、食べたことはなかったのである。
郡上美並にある「栃はかり」という岩が知られている。とちの実は村の共有で、いさかいを避けるため、その日採取した実を全てこの岩に置いて公平に分けたのではないかという。とちの実との深く長い関わりを思わざるを得ない。
さて私がここでまず出合ったのは「とちの実せんべい」で、ほのかに苦味があって香ばしく、すっかりはまったことを覚えている。以来数十年、若いときほどではないが、その飾らない味が気に入っている。ところが「とち餅」は、せんべいと比べ、左程うまいと思わなかった。
ここは、栃のみならず蓬や高黍などを雑ぜて搗き、いろいろな餅にして食べる習慣がある。私の場合、焼いたときの香ばしさから、草餅や黍餅にまず魅かれた。近頃は「とち餅」も、色々な食べ方で、おいしくいただいている。
と書いてはみたものの、栃がたいそう難しいテーマであることに気がついた。だがまあ、いつもの点描ということで勘弁してもらいたい。