八俣の大蛇(10) -八俣の大蛇と九頭竜川-

随分とこのテーマから離れてしまい、これを初めて読む人にはよく分からないだろう。できれば、バックナンバーを拾って読んでいただけると面白くなるかもしれない。
八俣であるから八つの頭とも九つの頭とも考えられるが、『古事記』の記述から八つの頭ということになっているので、一応これをもとに考えてみることにする。
ご存知のように、九頭竜川は白山から越前をぬけて河口の三国まで流れている。途中旧和泉村にある大きな九頭竜湖で水をたたえているから、以前の姿は分からないとしても、海までの距離が短く、時に相当激しい流れになることが想像できる。
数年前、嵐の直後に九頭竜川を辿って下ったことがある。山並みに数え切れないほどの大きな滝ができ、そのすべてから激しく水が落ちており、圧倒されたことを思い出す。いたるところで水害が起こっていたにしても、ダム湖でいったん水を溜めることができたので、最悪の大洪水を防げたのかもしれない。
さて、この頃私の頭から離れないことがある。吐き出してしまわないと前に進めないので、恥ずかしながらここに書くことにした。
つまらないかもしれないが、八つの頭の大蛇と九つの頭の龍が闘えばどうなるかというもので、何回やっても九頭竜が勝ってしまうのである。大蛇が好んで始めから黒金を体の中に持っているはずがない。だとすれば、八俣大蛇の尾の中にあった都牟刈の剣は九頭竜が放ったものの一本で、闘かいに敗れた後大蛇の体に残ったものではないか。『古事記』の解釈では始めからあったとされるから、須佐之男命は歴戦の大蛇をほふったことになる。
音からすると、或いは「九頭」を「国巣(くず)」と見ることも可能だろう。だが、その姿が強烈であるから、どうしても字面に囚われてしまう。
八俣大蛇を単なる神話とみれば、ただ過去の姿を絵にしただけとも考えられる。だが、時に激しい姿を見せる九頭竜川が八俣大蛇を退治するために当てられた名とすれば、話の前後関係が見えてくる気がする。
私は、八俣の大蛇が跋扈した時代、大蛇の体中に剣が刺さっている時代、そして復活し須佐之男命に退治されねばならなくなった時代の三つに分けて考えたいのである。

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