好太王碑文(1) -史料の確かさ-

四世紀後半から五世紀初頭にかけての基本史料は、一般に石上神宮の七支刀銘文並びに高句麗好太王碑文ということになっている。
特に後者は、日本のみならず韓国・朝鮮においても研究が蓄積されており、その読み方も千差万別だ。この期間における倭国関連の史料は結構あり、比較対照して位置づけることだけでも難しいが、列島史の骨組みであって、避けては通れない。
さて、この巨大な碑文自体は確かな史料だとしても、その銘文がどの程度信頼できるかをまず確かめなければなるまい。拓本自体に疑問が投げかけられ、その信憑性を確かめることに時間と労力を要した歴史がある。
幸い、現存最古の拓本が酒匂本と一致することが確かめられており、この点で異論は殆どない。つまりは一般に流布されている史料が使えるということで、田舎に住む私としてはありがたい。
だが碑文には欠字が多く、どこをとっても難解である。これから取り上げる幾つかのテーマについても欠字があり、周到な準備が要求されるだけでなく、読み手の力が試される。
従来の読解中には、時期や国によって大義や主観に左右されることが多く、それぞれのナショナリズムに影響されてしまう傾向があった。列島史に関連する「倭」についても同じで、すでに多くの俊英が解読を試みているものの、的をはずしているものもあるようだ。
私は、
1 碑文は漢語だから、漢語のルールに従う。
2 当時の用例を重視し、できるだけ推測を避ける。
3 銘文自身の文脈に従って読む。
という金石文解析の原則に基づいて読むことにする。
現在では研究が進み、辛卯年条の「渡海 破百殘」で、「高句麗・好太王」ではなく「倭」を主語と解することが多いらしい。この点、私には、論拠もしっかりしているように思える。
よって、徒手空拳の私がこれに加わることもなさそうだが、他に試したい読み方もある。
私にとってもこの碑文は試金石であり、シリーズを始めるにあたって、身の引き締まる思いがする。コラムという枠を逆に生かして、楽しめるものにしていきたい。

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