好太王碑文(3) -「渡海」の主語-

これまで、「而倭以辛卯年來渡海 破百殘」の「以-來」を句とみて「辛卯年以來」と読むことが難しく、「來」を動詞と考えてきた。とすれば、この主語が「倭」であることは異論が少ないと思う。それでは「渡海」「破百殘」の「渡」「破」はどうだろう。それぞれ述語動詞であることは間違いあるまい。
今回は「渡海」を中心に考えてみる。大きく分けて、主語は好太王と倭の二通りが考えられる。
前者は、この碑文が好太王の「勲績」を示すためのものであるから、永樂五年(395年)条も好太王の勲績を示して終るはずで、当然末尾の「臣民」も高句麗の臣民に解すべきと考える。『三國史記』でも、高句麗・百済・新羅本紀で「臣民」の用例はそれぞれの民をそれぞれの国家の臣民とする例のみであるという。このため、「渡海」の主語を好太王と見るのが自然というわけだ。鋭い視点であり、無視することはできないので、私の意見をまとめてみる。「渡海」の主語を好太王とすれば、
1 倭が何の目的で、どこからどこへ、どのように来たのかが記されていないことになる。「而」という接辞が順接か逆接か不明となり、倭が親善のために来たのかそれとも敵対したかすら分からない。
2 倭が実際どこで何をしたのも分からず、前後の文脈がつながらない。
3 好太王が「渡海」し、百済を破り、新羅を□□し、「臣民」にしたのであれば、理由を示さないで、好太王が翌年に再度百済を討伐する必要があるとは考えにくい。
確かにこの碑文は同王の勲績を示すためのものであるが、各年次それぞれの末尾が必ず勲績の文で終る法則性があると言うのだろうか。
永樂五年条では、この文章に先立って「又躬率往討叵富山負山 至鹽水上 破其三部落六七百 當牛馬羣羊 不可稱數 (中略) 而遷」という文で勲績譚が一段落しており、「百殘・新羅 舊是屬民 由來朝貢」以下の文が必ずしも直接の勲績譚である必要はなく、永樂六年条の前段であっても問題はない。
同六年条は「以六年丙申 王躬率水軍 討科殘國」とあり、文の始まりに「以て」が付いている。この後の書き方からして「以」は五年条を受けた順接の辞であり、既に五年の段階で高句麗が渡海して百済以下を破り「臣民」にしているのなら、六年条でまた王自ら水軍を率いて「科殘國」(百済)を撃つ必要があるとは思えない。
金石文はそれ自体が一級史料であるから、前後関係からそれ自身が持つ文意を最優先すべきで、文意を損なう法則などありえない。
以上から、「來」を述語動詞として主語を「倭」とすれば、「渡」も同じく「倭」でよかろう。『三國志』魏書東夷傳倭人条の「其行來渡海」などの例からすると、「來渡」を複合した動詞とみることもできる。