『説文』入門(43) -「壹」と「壺」-

『説文』入門(41)の(1)で、魏の大義名分論と中華思想から、陳寿が東夷の倭人に対し「臺」を避け「壹」に書き換えたと考えた。また呉書で「聖臺」を「聖壹」にしたのも同様で、西戎の羌人に関連して「臺」ではなく「壹」を用いたと推定した。この点は列島の古代史で骨格に当たるところであるから、できるだけ明らかにしておく必要がある。
さて今回は陳寿自身の話ではないが、魏代にやはり大義名分論から「壹」が使われている例を見てもらおう。
『三國志』烏丸・鮮卑傳冒頭で、斐松之は王沈らの編纂した『魏書』を引いて「至匈奴壹衍鞮單于時 烏丸轉彊 發掘匈奴單于冢 將以報冒頓所破之恥 壹衍鞮單于大怒」とし、二例とも「壹衍鞮-單于」としている。
ところが、『漢書』第六十四巻・匈奴傳では「壺衍鞮-單于」の表記になっている。『三國志』集解にも「漢書匈奴傳壹作壺 壺衍鞮單于之立在漢昭帝始元二年」とあって、この点を確かめられる。
つまり、『漢書』では「壺」であるのに、王沈らの『魏書』では「壹」の字形になっている。そこで、「壺」と「壹」について調べてみた。「壹」については既に引いているので、今回は「壺」を中心にする。
『説文』で「壺」は「壺 昆吾圜器也 象形 从大象其葢也」(十篇下061)である。昆吾氏が作った器の解で、象形字。「从大象其葢也」は、篆書体では上に大の字が乗っている形で、「ふた」を象っているという。
字形について言えば、『説文』『玉篇』はそれぞれ「壺」部及び「壹」部を独立させ、『康煕字典』『大漢和』は士部に合わせている。
字形から音をたどることは難しい。『玉篇』では「壺 戸徒切」、『廣韻』は「戸呉切」、『集韻』は「洪孤切」である。徐鉉は『廣韻』説を採用し、段氏は「戸姑切」とするから、少しずつ音解釈が異なる。仮名音では、まあ、甲類の「コ」「ゴ」あたりだろう。
以上から、「壺」「壹」は音義共に異なっていることが分かる。にもかかわらず、なぜ王沈らは「壹」字を選んだのだろう。
私は、字形が似ていること及び「壹 輩也」の義から、北狄にあたる匈奴に対し、魏の大義におもねて「壺」を「壹」にしたと解している。
王沈らの『魏書』は魏代まっただ中の書であり、魏の風潮を表しているだろう。これは、蛮夷に対し、陳寿が「臺」を避けて「壹」にした前例になるのではないか。
松之が引用したことを重視すれば、「壹」が魏代に大義名分論で使われた字であり、「聖壹」「邪馬壹國」「壹與」のそれぞれに原形があることを示唆していることになる。

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