リアリズム

歳相応のリアリズムを持ちたいと思う。色々と経験を積んできたから、一つの物事でも、幾つか観点を変えて考えるというようなことはまあまあできるようになった。年齢を重ね、自分の寸法が分かるようになってきたからかもしれない。
その反面、経験をすべて擲って、新たな状況に対処するというようなことが中々難しい。鮮度のよい感受性がすでに磨滅してしまい、やることなすことが頑なになっているのだろうか。
ただ現実のごく一部を切り取ってすべてに優先し、ああでもない、こうでもないと拘ることをリアリズムと言うのであれば、私には届かないしろものである。もうそこまでの熱意がない。
仮に金を優先するなら、金を稼ぐことに格別な実感があるかもしれないし、色恋沙汰にしてもまたしかりである。学問や他の趣味にしても同じだろう。だが、これらはすべて日常の匂いが消えてしまった時点で、気づかないうちに形が歪み始めるのではないか。
若い時は誰でも、やりたいことがたくさんあって、多かれ少なかれ背伸びをするものだ。私の場合、愚かにも「自分を知る」ことを一生の課題にしてしまった。己が分をわきまえ楽しく生きるためであるが、今思えば、全く分をわきまえていなかったのである。
というようなわけで、歳をとってしまった今でも、若い時にやりたいと思っていたテーマの一つをライフワークとしてやり続けている。生きているうちに目鼻をつけておきたいとは思うものの、私の力をはるかに超えたしろもので、途中で折れることは間違いなかろう。大まかな外形は描けるとしても、日常の作業はまるでブラックホールに吸い込まれているようで、進んでいるのかどうかさえ分からない。実際に形のあるものなら少しずつでも完成に近づけるだろうが、私にもその形すらはっきりしない。
幸か不幸か、仕事に関して私は現役である。今の経済状態でいけば、まあ、死ぬまで働くしかない。この点では、浮世離れできない状況にはある。
書くことについて言えば、リアリズムを何か限られたものを取り出し細部にわたってそれらしく描く方法とは考えていない。私の能力では、考えられる限りの全体像を描いた上でしか各論に進めないのである。文章にしても、人生の張りや艶というようなものを持ち続けている人だけが書ける面白さがあるのかもしれない。