鶏口牛後

なじみの薄いテーマになりそうだ。子供の夢が堅実な公務員や会社員になることの多い現代では、時代錯誤と言われるかもしれない。
『史記』蘇秦列傳に「臣聞鄙諺曰 寧爲雞口 無爲牛後」(巻六十九)という文章が載っている。「臣」は、合従説を説いた蘇秦のこと。「鄙諺」は俚諺ないし俗言で、巷で流布していることわざ、「雞」「鶏」は同字異体と解してよいだろう。
一般に「寧ろ鶏口と爲るとも、牛後と爲る無かれ」と読まれることが多い。これは蘇秦が韓王に、「秦に仕えるよりは、諸侯と合従して自ら主たれ」と説いたことになっている。
『索隱』はこの俚諺のもとになる話として、『戰國策』の「寧爲雞尸 不爲牛從」を引用し、「延篤注云 尸 雞中主也 從謂牛子也 言寧爲雞中之主 不爲牛之從後也」と解している。ここでは「尸」が「主也」、「從」が「牛子也」で、「寧ろ雞中の主と爲るとも、牛の從後と爲らざるなり」あたりに訳せるだろうか。
『正義』は「雞口雖小 猶進食 牛後雖大 乃出糞也」とする。「鶏口は小と雖どもなお進食し、牛後は大と雖ども乃ち糞を出すなり」あたりでよいとすれば、卑近な例で意味を示していることになる。
自分に照らして考えてみると、自ら進んでじっくり据えたテーマに関しては、熱意も根気も続く。が、食指が動かないものについては一切進歩しない。
同じ仕事をやっても、将来責任ある地位につきたいとか、自分で独立するとかの野望がある人は物覚えもよく進歩が早いのではなかろうか。当然、仕事に関する人脈も広がる。
これに対し、与えられた仕事をうまくこなすことしか念頭にない人は、例えその仕事には精通しても、周辺には興味を示さないだろう。一生やっても、それ以上分からないことは、どうしても分からない。
遊びでも同じで、熱意があり、ちゃんとやりたい人はそれぞれの内容を要領よく自分のものにする。水準が上がるにつれて、付き合う人も増えていく。
人が仕事や遊びに求めているものが皆同じとは限らないとしても、自ら望む以上を手に入れることはまずないのである。どちらが良いとか悪いとかは別にして、密かにでも「鶏口牛後」の大志を持てば、心豊かに生きるチャンスが増えるのかもしれない。

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