『説文』入門(50) -「德」について-

私が徳について語るのは如何にも場違いだ。だがまあ、字形を中心に考えるのであれば許されるのではあるまいか。
『説文』で「德」は「德 升也 从彳 悳聲」(二篇下125)で、これだけでは何のことだかよく分からない。
まず形について言うと、「彳」に従い、「悳聲」の形声字である。但し、『廣雅』「德 得也」(巻三下 釋詁・16)の疏證に「大戴禮盛德篇云 能得德法者爲有德 説文作悳同」とあることからも、単なる形声字ではなく、「彳」「悳」の会意字とも解された時期があったのではないか。
「德」音について、段氏は徐鉉説に従い『唐韻』を採用して「多則切」とするらしい。『廣韻』から考えて妥当なところか。これは声符とされる「悳」(十篇下131)と同音である。
義につき段氏は「升當作登」として、「德 登也」であったと解している。これは「登」が「得」に読みえるからで、さらに音義とも「得」「德」両者が通じることを根拠にする。確かに「得」(二篇下155)も「多則切」であり、「德」「得」はほぼ同音と考えてよさそうだ。
但しこれだけではかなり強引な説と言えそうだが、「得」を「德」とみることは『史記』孟嘗君列傳「齊湣王不自得」の『索隱』注で「不自德」として解しているし、上で示したように『廣雅』も「德 得也」としている。
また『玉篇』が「德 都勒切 惠也 福升也」(彳部一百十九)とし、『廣韻』が「德 德行 又惠也 升也 福也」(入聲巻五 德二十五)とするから、「得」の義が更に「惠也」「福也」へ発展しているとも考えられ、「得也」は伝統化した解釈と言えるかもしれない。
ただ『玉篇』にあるように『説文』の定義が「德 福升也」と解せるのであれば、わざわざ「登」を経由する必要があるとは思えない。
直裁に「德」を「彳」「悳」の会意字とすれば、「悳 外得於人 内得於己也 从直心」だから、「德」は「直き心」の義とも考えられる。字形からとすれば、必ずしも俗解とは言えないのではあるまいか。「德」の仮借字としてしばしば「悳」が使われていることからも、私はこの解釈を捨てきれないのである。
徳行の一つとして「直心」を身につけているのであれば、確かに、徳望の高い人格と讃えられることもありえる。
私は、すべての若者がせこいことをせずおおらかに育ってほしいと願ってはいる。だからと言って、私が素直な心を持っているわけでも、人に恵みや福をもたらす人格を有しているわけでもない。