行き違い

人と人の関係に絞ってもどうやら誤解や行き違いは避けられないようだ。
人間関係は、言語のみで成り立っているわけではない。人は生き物として生老病死や愛憎から逃れられないから、非言語の闇に浸っている。これを言語で表そうというのは、立体を平面で表現するようなもので、無理がある。だが、だからこそ哲学や芸術の対象になるという意味はある。
ところが様々な社会関係となると、互いに言語が媒介していることは否定できまい。これによって表舞台に登場する人もいるし、身を滅ぼす人もいる。ジェスチャーなど非言語の手段であれ、背景には言語があると考えてよい。ところが言語というものは、実体があるようでないし、ないようであるとも言える。
約束事は言葉で交わされる。とすれば、もちろん信頼関係もまた誠実さに裏打ちされた言語を背景にしていることになろう。
同僚や親友、夫婦など長年築き上げてきた関係も、一瞬の言葉遣いでこわれてしまうことがある。これらの場合、自分の思いとは異なり、それぞれが砂上の楼閣であったとも考えられる。
逆に言えば、時間をかけて徐々に崩壊させてきたとも言えそうだ。単なる言葉遣いの間違いではなかったのかもしれない。積み上げてきたものが一方の独りよがりであったり、誤解に基づいているだけで、互いの真の関係がまことに脆いものであったことが、不用意な一言で露見しただけとも考えられよう。
一般に言語は言語にすぎないのであって、実体を媒介することがあっても、けっして実体そのものにはなりえない。コミュニケーションに言語を使う以上、その仮構性は前提されているはずだが、どうしても言葉が独り歩きしてしまう。
ただただ、人は自分の考えを相手へ誠実に伝えようとする必要があるだけではなく、聞き手もまた全力を挙げて理解しようとしなければならない。例えこれがうまくいったとしても、互いに理解できるのは一瞬であって、その後は再び闇の中に入ってしまう。こんな努力が日常できるはずもない。
だからと言って、私は不可知論を述べているのではない。だからこそ自分の考えを死ぬまで、できるだけ分かり易く、熱意をもって相手に語ることが大事だと言いたいのである。