持衰(下)

前回は『三國志』倭人条の「持衰」が「持縗」と解せることを示してきた。今回は「持」を検討した上で、倭人が十分漢語を理解して「持衰」と名づけていることを明らかにできれば本望である。
前回触れることができなかったが、「衰」が「縗」の義で使われている例を『史記』で示しておくと、
1 「乃令陽虎詐衞十餘人衰絰歸」(巻三十七衞康叔世家第七) 集解「服虔曰 衰絰 爲若從衞來迎太子也」
2 「襄公墨衰絰」(巻三十九晉世家第九) 集解「賈逵曰 墨 變凶 杜預曰 以凶服從戎 故墨之」
で、やはり喪服と解してよかろう。
さて『説文』で「持」は、「持 握也 从手 寺聲」(十二篇上150)で形声字。解の「握也」は「握 搤持也」(十二篇上167)だから、ほぼ互訓と考えてよい。字形から考えて、「握る」という行為に解してよかろう。これだけなら、「維持する」「堅持する」あたりの意味しか出てこない。
これに対し『廣雅』では「齎 奉 持也」(巻三下 釋詁・45)とされており、興味深い。『説文』で「齎」は「齎 持遺也」(六篇下093)で、一般に「資」と同義に使うことが多いから、「人に物を預けたり、与えたりする行為」に解せる。「奉」にしても、同様に考えることができる。
以上から、「持衰」を「持縗」とみて、「喪服を堅持する」義のほか、「縗」を保つ人に対し物を与える義も考えられる。後者につき、倭人条には「持衰」に関連して「若行者吉善 共顧其生口財物」という記事があり、少なくとも陳寿は倭人が漢語を十分理解し命名していると解しているだろう。
「持衰」が実際に喪の習慣から生れたものかどうか不明である。だが、同倭人条には「其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲食」とあり、相当厳しい喪の習慣があって、一方で喪主の役割が強調され、他方でその他の人は「他人就歌舞飲食」だから宴会している。これから、「持衰」の役割を担った人物が「行來渡海」の喪主に擬され、財物を与えられるという二面性を持っていると考えられないか。
「持衰」は倭語を漢語の音で表した仮借字に過ぎないとする考え方があるかもしれない。確かに仮借の可能性もあるが、にわかに原形となる倭語が復元できまい。
私は、「持」「衰」「縗」の用例から、漢語と解するのが成り行きではないかと考えている。「翰海」の用例とも考え合わせれば、一部であるとしても、倭人の構成に日が当たる可能性が出てくるのではないか。

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