教育の普遍性

歳をとると僻みっぽくなるからか、自分がこつこつとやってきた事がつまらないと感じ、行く先を考えると途方にくれたりする。自分がやってきたことが少しでも普遍性を持つのであれば、気休めになるかもしれない。ここで普遍性と言えば、古今東西大切にされる性質ぐらいに定義しておく。今回は、教育にかかわることを考えてみたい。今では、孫の面倒をみることがある爺という立場からも考えられる。
さて、教育で変わらない価値というのはどこにあるのだろう。大まかに言えば、子供を守り育て、心身とも一人前になるための準備をすることだと思う。この点は大抵の人が認めるのではないか。しっかり食べれば、体はそれなりに大きくなる。だがこれだけでは、一人前とは言えない。
ことはさほど簡単ではないのである。一歩進めるだけで議論百出となる。一人前と言っても、それぞれの社会や時代が求める大人像というものがあるし、携わる大人それぞれの人生観もこれを左右する。
こどもの年代によって、主として親が関わったり、幼稚園や学校が大きく関わったりする。育児や躾から学校教育まで、日常の大変さは人生そのものの大変さだが、どの局面でも子供一人一人が個人として能力を蓄えていくことを念頭においているだろう。子供が個人であるという視点が入ってくるわけだ。このあたりでややこしくなる。
個人といっても一人で生きていくわけではないから、社会性を身につけ、互いに支えあうことを学んでほしい。どの親でも友達との約束を守り、法を遵守し、平和に暮らしてもらいたいと思うだろう。
このため、国語で言葉の理解度を深め、外国語を学ぶことで価値観の多様性を認め、数学などで落ち着いて粘り強く筋道をたてて考える力などを身につけようとしているのではないか。いわば、個人としての完成度を高めようとしているわけだ。
ペーパーテストは、いわばその時々の勉学の進み具合を確かめるものであって、それ自身が独自の価値をもつとは思えない。だがまあ、普段からしっかり自分のために勉強していれば、当然それなりに成果は得られるはずだとは思う。
私は子や孫が、一人の人間として、自分の力で金を稼いで衣食住を満たし、かつ十分に心楽しく暮らして欲しいと考えている。私には、彼らに残す名誉も遺産もないからである。
しかしこの世はさほど簡単ではない。子供が、受け継ぐ遺産が十分あると感じていれば、働いてしっかり稼ぐことへ目がいくとは思えない。確かに何代も続いた名家であれば、自前で働くことを強調しまい。また拝金主義や、事なかれの役人などが横行していれば、法を遵守する積極性を失うかもしれない。だがこのような事は、些細なこととは言えないとしても、教育という観点からすれば本道ではあるまい。
人間は生き物として個人であり、生きていくには社会人でなければならない。子供が将来一人で生きることになってもしっかり楽しく暮らせるよう、ゆっくり力をつける手助けをするのが教育の普遍性なのではあるまいか。

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