一人では
そんなことを知らなかったのかと笑われそうだが、近ごろ、一人では生きていけないことを実感した。今回は家族ではなく、友人や共に暮らす地域の人を念頭に置いている。
いろいろな人に助けてもらいながら生きていく他ないことは、若いころでも概念としては理解していたし、それなりに納得していたと思う。しかし実際のところは、歳を取るにつれて、時々にかけがえのない経験として積み重なっていくのではあるまいか。
私の場合、まず家族と共に見知らぬ土地へ引っ越したとき、帰郷していて阪神淡路大震災にでくわしたとき、再度郡上へ引っ越したときあたりが思い浮かぶ。
誰しも一人前になるために、若い時から、肉体と精神を鍛える。教育は各人が個として自立することを手助けするものだろうし、礼儀やしつけは各人が互いに気持ちよく生活するエチケットとして必要なものだろう。
だが、これらはいずれも社会の中で暮らすことを前提にしている。けっして無人島で独り暮らしするためではない。
経済の自立にしてもそうで、多くの人はまず生活の糧を安定して得ることを望むだろう。例え金を用意できるとしても、衣食住すべての場面で、様々な人の力を借りて生きざるを得ない。お互い様というわけだ。私にしても、一臂の力があるとすれば、分業の一端を担っていることになる。
私もまた、これだけ込み入った社会で様々な欲を持ちながら生きており、一人の力でできることが限られていることを知らないわけではない。その上で少しは欲望を満たしながら暮しているわけだから、この件については、それほど文句はない。
どうしても妥協できない繊細なことや一刻を争う場面では、個として最大限の能力を発揮しても力及ばず、どうしても人に頼らざるを得ないことがある。全ての人が時々の状況や事実を神のごとく瞬時に洞察できるわけではない。
としても、若い人には、様々な夢を持ってもらいたい。人はどうやっても完全な存在となりえないからだ。君たちのために我々が十分なことをやってきたとは言えないけれども、夢を持たないよりは、たとえ潰えるとしても持ち続ける方が人生に哀愁があって面白い。もっぱら夢が自分に関わるものであれば、少しばかり実現できれば上出来である。軸足が他者との関係にあれば、面白いことがやや多いかな。
日常をよくよく振り返ってみれば、毎日、いろんな人の助力で生活していることがわかる。自尊の気持ちがあまりに強ければ、これが見えなくなることがある。
人は一人では生きていけないからこそ、まず力を蓄えて自らを救い、その上で人の役に立つようになりたいものだ。