東町

私は吉田川の左岸を散歩することが多い。用水を遡って行くと言ってもよい。我が家からゆっくり歩くと、十分ほどで取水口あたりにつく。そのあたりから土手の急な坂道を上がると、八幡大橋の信号に出る。
大橋より上流の左岸は東町と呼ばれている。橋の手前までは南町と呼ばれており、ここで急に南から東へ変わるので、ちょっとした戸惑いがある。城下町の色合いが残る北町に対して、こちら側を南町と呼ぶのは納得できる。ところが、橋を越えるだけで東町になるわけだ。
これには南町の東という意識もありそうだ。愛宕町などは「東部」自治会に含まれる。あるいは吉田川は八幡の街を上流へ遡るにつれてやや北側に向きを変えるからかもしれない。
東町はかつて口明方に含まれ「旭(あさひ)」と呼ばれていたので、地元の人にとって「東」が自然な命名だった可能性もある。この場合、直接には南町と関連がないことになる。市街地が広がるにつれて、そのまま八幡と繋がってしまったそうだ。実際のところ、どうなんだろう。
東町は和良、口明方へ通じる地点である。従って古くから交通の要衝であったにもかかわらず、愛宕神社の方から大きな岩がせり出しており、ここらあたりでは歩危(ほき)と呼ばれる難所があった。
和良筋に関して言うと、古くは鬼谷(おんだに)などを経由して、少し上流の川佐や市島へ出るルートも使われたようだ。が、遠藤氏の時代あたりから、険しいながら、近道となる堀越が頻繁に使われるようになったのではないか。
『濃北一覧』によれば、応永十六年(1409年)九月十一日に土岐一族が郡上を攻めた際には、気良郷と和良筋から入ってきたとある。前者に対して東氏は小野山から「鶴佐瀧山」に陣を構え、後者に対しては堀越山で十分に用意をした。
天正二年(1574年)津保梶田の斉藤新吾が軍勢を催し堀越峠の神戸山に砦を構えて郡上を横領しようとした際に、遠藤方は市島山、悪田山(安久田)、赤谷の三方でこれを迎え撃つ体制だった。
これらからすると、堀越からは赤谷ないし安久田に谷道があったことになりそうだ。八幡の側からすれば、小川峠を経由して明方筋から来るよりは、鬼谷あたりから出てくる方が脅威だっただろう。まして赤谷や武洞は、吉田川へ出るには最短だったはずだ。犬鳴川の場合は、愛宕の歩危が馬や荷車を妨げたかも知れない。
東町からもう少し遡ると田尻というところがある。ここには稚児山へ通じる道があった。『一覧』(卷の一)に美濃国の有名なものを列挙する中で、「田尻に稚児の権現山」、注に「粥川虚空藏北方妖鬼守護神なり」とするものがある。高賀山の峯稚児神社に対応しているとすれば、稚児山は瓢岳の権現山だったことになる。

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