芋洗い

正確には芋の皮むきが正しいかもしれない。芋は主として里芋、洗いは土や皮を綺麗に洗い去ること。
先日島谷用水を散歩している際に、わきで見慣れぬことをしている人がいる。覘いてみると、石臼の中で芋を洗っていた。今までにもやっていたとすれば、私が全く興味を示してこなかったことになる。そう言えば、確かに臼が据えてあるのを見たことがある。如何にも、迂闊で、ふわふわした人生だ。
このあたりは取り入れ口からさほど離れておらず、水温も吉田川と変わらないし、何となく透明度も高いように見える。私の知っている皮むきは籠を水車式にして水の中を回すもので、上手に剥けるものだと感心したことがある。
ここでは、臼の中に水を入れ、手で板を反転しながら回しているわけだ。入れてある量は、恐らくその家の一回分あたり。芋の土を払い、ひたひたに水を入れ、先端が丸くなった専用の板を回す。私もやらせてもらったが、あまり力を入れなくてもいける。
洗っていた人の話では、板を四百回ほど回すという。まだ芋を掘り始めたばかりなので、皮も柔らかく、むきやすいそうだ。私の見たのはほぼ最終段階だったようで、白い肌をみせているものが多かった。どうしても窪んだところの皮は取りきれないが、柔らかいので、手でも簡単に取れる。ところが、古くなって皮の乾いたものはなかなか難しいと云う。
この臼がかつて餅をついていたものを転用したのか、芋洗い専用なのかは分からない。餅をつくにしては、内側がざらざらと荒いように感じた。ただ臼が古くなっているだけかもしれない。
今では、田舎でも、臼で餅をつくことはほとんど見かけなくなった。人手が足りなくなってきたのだろう。つく方が腰のある餅になることが分かっていても、どうしようもない。今ではもう、何かのイベントでやるぐらいではないか。
この用水は、さまざまな野菜を洗うのみならず、生活用水としても重要であった。かつて女性の月のものや赤ん坊のおむつは、用水から本流の方へ別の流れを作り、洗っていたようである。井川のどんつきにもある。赤谷と交差する上に用水を分流して、やはり別に洗うところをつくってある。伝染病を避けるためだっただろう。これらが厳密に分流してあるのは、当然とはいえ、どうしても長い歴史を感じてしまう。
親しい百姓の話によると、この辺りではお盆前後に雨が降らず、今年の里芋は不作のようである。それでも臼の中の芋は、ほどほどの大きさで、煮て食べればうまそうに見えた。
川柳をひとつ。 おろかさも 気づいていけば それなりに

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