高賀山(1)

瓢岳のシリーズに続き、高賀山を取り上げる。高賀山信仰は板取川に沿う地域のみならず郡上にも大いに関連する。この山はまた郡上史としても欠かせないテーマであり、いささか纏めてみたいが、私には荷が重いかもしれない。私の抱いてきた疑問をご一緒に考えていただくという立場を貫きたい。
私は瓢岳と高賀山信仰を分けて考えているものの、まだ根拠はしっかりしていない。
長良川を美濃から遡る一帯は春祭りと言ってよかろう。この点は、星宮神社でも新宮でも同じで、本宮もまた同様に春祭りが行われている。私は春が南から徐々に上がってくるように感じている。
これに対し高賀山は秋祭りである。私にすれば、早くもここで違和感をいだいてしまう。郡上でも和良や明方筋では秋祭りであり、郡上八幡では八幡神社もまたかつて秋祭りであった。以上からすれば、長良川筋ではこれらとは異なる経緯があった可能性が出てくる。
古代における死者の埋葬に関する史料はないが、この地においては鳥葬など自然葬の時代が長かったと推測している。ただ、きれいになった骨を再葬したようなことは考えられる。中世においても、遺体を土葬し墓石を置くなどというのはかなりのスペースが必要であり、ごく少数の有力者に限られていたのではないか。
最近まで火葬された骨をそれぞれの山際へ埋納する習慣があったことからすれば、山が本来祖先と産土神を祀る場であったことを示していよう。
山はまた水が生まれるところである。少なくとも目につくところであれば、滝などに水神が祀られてきた。農業神の側面を合わせ持つことになる。以上からすれば、祖先神であれ農業神であれ、山そのものが信仰の対象だったと言えそうだ。
高賀山もまた洞戸地区を中心にした祖先神や農業神を祀る山だっただろう。瓢岳や今淵岳も同じである。これらからすれば、それぞれが独立した信仰であり、それぞれの神社を祭祀していた禰宜などがその辺りで有力な族であったというようなこともあり得る。
これに対し白山信仰や熊野信仰などは山々を巡るものであり、それぞれ修験者の価値観で山をつなぎ合わせている。各地のコミューンが本地として仏教を受け入れた要因の一つは火葬にあっただろう。他方、修験者もまた各地の神を受け入れることにより、その存在が許されるようになったのではないか。
瓢岳や高賀山を中心とする連山の周囲には、神域と俗界を分ける七谷戸がある。これからほぼ一里奥に六社権現が鎮座している。確かにこの整合性からすれば、高賀山を中心とする山岳信仰で一色に見える。だがこれらは、虚空蔵信仰を強力に推し進めた十四世紀ないし十五世紀以後の話で、主として江戸期の六社めぐりに起因するのではないかと推察している。

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